家康の直系の孫として強い誇りを持っていた忠直は、秀忠、家光の将軍家に強い対抗心を持ち、幕府の統制を免れようとした。そこに大きな障害となったのは、武生と丸岡を任され、時には江戸幕府の意向を強く反映させようとした付け家老の存在だった。

 
幕府と関係深い二人の本多
 江戸時代初期の越前藩には二人の本多がいた。結城秀康が迎えた府中城主の本多富正、子の松平忠直の時代に幕府から派遣された丸岡城主の本多成重。いとこの関係だった。三河以来の松平家(徳川家)の家臣団の中核だった本多家の勇将は、高い統率力があったとされる結城秀康にとっては頼もしい存在だったろうが、まだ年若く、誇り高い忠直にとっては目の上のたんこぶのようなうっとうしい存在だったかもしれない。この二人との対立が忠直の「乱行」の原因の一つであり、さらに問題をこじらした要因であったに違いない。
 秀康支えた本多と今村

結城秀康と殉死した永見右金吾と
土屋左典の像
龍泉寺に伝わる家康(中央)秀忠(右)秀康(左)像


 本多富正は結城秀康より3歳上で、実質的な人質として豊臣秀吉養子になり、大坂にいって以来のつきあいでもっとも信頼が厚かった。父の重富は家康の長男、信康に仕えた。関ヶ原合戦時に、上杉に備えて関東を守った秀康が一躍68万石の越前藩主に加増されたとき、秀康に先発して北庄に入ったのが富正だった。越前でも36750石を与えられ筆頭家老となった。ただ結城以来の家臣今村盛次が丸岡で35000石を与えられるなど、絶対的な地位ではなかった。
 秀康死後今村が力
 (慶長12)年、秀康が32歳の若さ病死する。一部の家臣は殉死したが、富正には厳しく殉死が止められた。秀忠が将軍に就いた2年後だった。忠直が継ぐがまだ弱冠13歳。本多富正と今村盛次の連署で法令が出された。(慶長16)年、忠直に将軍秀忠の娘勝姫が輿入れした時には、従5位になるなど、富正の地位は高くなるが、本来上位である富正が盛次の後に署名するなど、藩内の実質的な権力は今村の方に移っていく。秀康が全国から有能な士を集めたため、徳川につながる本多より今村の方が人気があり、忠直もも今村の方を好んだという。
 そこに起こったのがお家騒動久世事件だ。
 
本多追い落とし狙う久世騒動
 久世騒動はまことにややこしい。簡単にまとめると、秀康の寵愛した家臣に久世但馬がいた。もと佐々成正の侍大将で、佐々が秀吉に切腹したあと関白秀次に仕え、秀次の自刃後、秀康の家来となった。秀康は「家康の感状、越前68万石、但馬の召し抱え」をわが3大喜びと言ったといわれるほどで、本多富正と結んで藩政を動かした。
 現在の福井市森田地区で一家を家に閉じこめたまま焼き殺すという惨殺事件が起こり、その首謀者が久世の家来だという密告があった。町奉行は今村派の岡部自休だったことから話が大きくなる。今村はこの機会に久世と背後の本多の力を削ごうとする。
 今村は久世に犯人の引き渡しを申し入れるが、「逐電した」と応じず、事件との関係を否定する。そこで忠直の母の兄を動かして忠直の支持を取り付け、城の各門を閉ざし城を実質的に占拠。権力を掌握し、評議で久世但馬の成敗を本多富正に命じた。やむなく本多は府中から兵を呼び寄せて、久世屋敷を囲みさらにそれを今村の勢力が遠巻きにした。さらに忠直の上意として久世に切腹するよう説得せよとの命令が出される。単身久世屋敷に乗り込んでの説得も失敗し激しい戦いとなり、久世一族は全滅、戦いの最中富正は後ろから銃撃をうけたという。本多家の菩提寺、武生の龍泉寺には久世騒動と後の大阪の陣での犠牲者を弔う碑が残っている。

龍泉寺に伝わる久世騒動と大阪の陣の
犠牲者を弔った碑
松平忠直が龍泉寺に与えた寄進状


 
幕府が審理、本多が逆転勝利
 事件を知った幕府は、本多、今村を江戸に呼び寄せ、審判を行った。後の大老土井利勝が審理を担当し、家康、秀忠が直接話を聞くなど強い関心を示した。
 本多側の訴状が今村側に渡るなど審理は今村方に有利と見られたが、最後に富正が秘密の上意書を取り出して逆転。今村一派は禄を召し上げられ配流となり富正はお構いなしとなる。富正の上意書は「今村が不必要な賄領を得ている」「久世征伐の際、今村は天守で観戦し、本多を後ろから撃った」などの内容で今から見ると絶対的なものではない。それでも本多が勝ったのはもともと幕府に本多を勝たそうという意向があったのでは推測させられる。今村が旧浅井家の出だったことから、豊臣との決戦を前に越前藩から豊臣色をなくしたいとの狙いがあったと指摘する人もいる。

龍泉寺にある本多富正の墓。本多家代代の墓所でもある 本多富正の寄進で発展した龍泉寺


 
一筆啓上の成重丸岡へ

日本で最も古い天守という丸岡城 丸岡町内にある本多家の墓所


 幕府は今村に代わって旗本の本多成重を次席家老で丸岡城主として送り込む。成重の父は家康の近親で鬼作左と呼ばれた本多重次。重次は「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という短く要領を得た手紙を書いたことでも知られる。手紙の中に出てくるお仙が本多成重のことだ。福井県丸岡町は成重が丸岡城主となった縁から一筆啓上賞をつくり全国の話題を集め、今でも毎年多くの応募があるが、この手紙が書かれたのは丸岡にくるずっと前の話で、かなりこじつけぽい話ではある。
 
忠直配流後 大名として独立
  これ以降越前家は二人の本多が引っ張る。大坂の陣では二人そろって家康から叱責されることもあったが、夏の陣では忠直の抜け駆けを進言するなど真田幸村を破るなどこの戦いきっての越前勢の功績に寄与した。しかし恩賞がなかったことなどから幕府への不満を募らせる忠直と成重の対立が目立つようになり、結局忠直は乱行があったとされて大分へ流される。忠直の配流ごは成重は丸岡城主として独立、越前藩政に関わりながらも一大名としての地位を確保した。富正も1634(寛永11)年の幕府の朱印改めで忠直を継いだ忠昌に50万石が安堵された際、大名に任じられて大名に任じられるとの話はあったが、
藩祖、秀康の取り立てで今日があると辞退したという。
 本多家は幕府からは大名扱いに遇じられ、江戸城内では四位以下の大名の入る柳の間詰めで浅草、後に本所に江戸屋敷をもらった。将軍家の慶弔時には諸大名と同じに献上し、江戸在勤の年は将軍にお目見えし拝領物をいただくなど待遇は大名と同じだった。