勝家に勝機はなかったか
         賤ヶ岳の合戦 

賤ヶ岳合戦まで
つかの間の和解
雪かき分け近江路へ
今の賤ヶ岳は
秀吉誘いの隙見せる
猛将佐久間敵陣へ侵入
第1の転機 攻勢か撤退か
秀吉大返し
7本槍は不発だった
第2の転機、前田突然の撤退
勝家、不発だった戦略は?
木之本側から見た賤ヶ岳 賤ヶ岳頂上にある合戦図


緊張高まる勝家、秀吉
       賤ヶ岳合戦までの動き

 信長亡き後、織田軍団内の覇権を目指して羽柴秀吉と柴田勝家が激突したのが1583(天正11)年の春浅い時期だった。信長が前年6月に本能寺で明智光秀に討たれてから9ヶ月。全体の形勢は山崎の合戦で光秀を下して大きな功績をあげ、さらに織田軍団内での地の利を得た秀吉に有利に進んでいた。
 織田軍団内は秀吉、丹羽長秀を中心にする勢力と柴田勝家を中心に信長の息子の織田信雄、神戸信孝、滝川一益の勢力の二つに分かれていたものの、柴田側は織田の兄弟の跡目争い、関東管領だった滝川の大幅な勢力減などからふるわなかった。
  

 前田利家ら使者で和解

 1582年11月、冬を前に勝家は長浜城主の柴田勝豊に命じ、いったん秀吉と和平を図る。北陸にいた、前田利家、不破勝光、金森長近を介添え役として派遣する。この前田利家らと勝家の関係は、北陸方面軍の同僚であり、戦時には勝家の指揮下に入るが普段は上下関係はない。信長生存時はむしろ、互いに監視役的な役目もあった。個人的に利家は、清洲の浪人時代に勝家から世話になって恩義を感じ、一方秀吉とは4女を養女に出すなど親しい同僚関係だった。このため和平にはもっとも適役として送り出され、話をまとめた。
 しかし実際は秀吉は12月に入ると行動を起こし、長浜の柴田勝豊を囲む。勝豊は勝家のおいの佐久間盛政と不仲だったことからあっさりと降服し、秀吉方となる。さらに織田家の後継者とされた信長の孫、三法師秀信を手中にしていた美濃の岐阜城の神戸信孝を包囲し降服させる。さらに翌2月には伊勢討伐を進め、滝川一益を攻める。

 雪の中で切歯扼腕

 勝家ももともと和平は、一時的なもので、春になったら本格的な対決があると覚悟し、徳川家康との友好交渉進めていた。ただ秀吉の行動は予想以上に早く越前の雪の中、切歯扼腕していた。越前、滋賀の国境は深く雪に閉ざされ行動は起こせなかった。秀吉が越後の上杉景勝に越中、能登への侵攻を促す一方で、勝家は徳川家康に書状に送るなど外交戦が展開された。

 雪をかき分け近江進出
   合戦始まる

 ようやく春がきた1583年2月末(新暦4月)勝家軍は越前をでる。府中(現武生市)城主の前田利家の長男利長を先陣に、勝家の甥佐久間盛政、前田利家らが次々と出陣、勝家も3月9日に北庄をでた。利長ら先発隊は、勝家が近江からのメーン道路として整備した、今庄から現在の国道365号線を通り近江に出る栃木峠から椿坂へ下る道を通ったと見られる。しかしこの年はまだ雪が多く、かき分けながらの道中に苦労したことから、後発隊は木の芽峠から敦賀を通って県境の柳ケ瀬に出る道を通りほぼ同時に着いたと言われる。先発隊はいったん木之本まで進出し、周辺や北国街道沿い、さらには関ヶ原まで進出してに火を放った。その後羽柴勢が前進基地の砦を置いた天神山を囲むため戻り、結局余呉湖の北側、北国街道の西側の山々に陣を敷いた。
 柴田の近江侵入を聞き秀吉は伊勢攻めの兵力の大半を近江に向かわせる。佐和山を経て、17日には勝家勢の退いた木之本まで進出。弟秀長が木之本に近い田上山に羽柴秀長、さらに柳ケ瀬に近い中ノ郷を見下ろす左祢山に掘秀政を置き、北国街道の東側を押さえた。木之本北側の賤ヶ岳、余呉湖に中川清秀、高山右近らの兵を置き、余呉湖の北の天神山に木村隼人正の陣を置いた。
 

 賤ヶ岳の現風景、眼下に余呉湖

賤ヶ岳頂上への登り口 頂上に向かう近江鉄道のリフト


 賤ヶ岳は北陸自動車道の木之本インターに近い。インターを降りてすぐに交差点を左折、塩津方面に向かうと正面に見えてくるのが賤ヶ岳だ。賤ヶ岳の北側に小さな余呉湖、西側に巨大な琵琶湖が広がる。山腹にトンネルがあり、そこを抜けると琵琶湖が現れ、道は塩津に向かう。トンネルの手前を右折して山際の細い道を走ると、賤ヶ岳のリフト乗り場に出る。高さ約400b。近江鉄道がリフトを運営している。リフトで約5分。そこから山頂まで歩いて300b。
 山頂からは東は木之本の街並みから遠くに小谷城のあった山まで見える。西側は琵琶湖が広がる。北には真下に余呉湖が見え、奥に柴田勢が陣取った県境に近い山並みが続く。

賤ヶ岳から見た余呉湖。湖畔右の小さな山が大岩山。奥の連山に勝家方が陣を構えた。 賤ヶ岳から眺めた木之本の周辺。奥のとがった山が小谷。



 持久戦続き、秀吉岐阜へ

 兵力は羽柴方が有利だが、柴田方は山にしっかりと陣を築いたため、無理攻めはできない。勝家も秀吉陣を突破できるような力はない。小競り合いはあっったが、1ヶ月近い対陣が続く。
 4月に入って事態が動く。滝川一益が美濃侵攻。織田信孝が再び挙兵する。秀吉は木之本を秀長に任せ、15000人を率いて美濃に向かう。しかし途中の揖斐川が氾濫し、岐阜まで迎えず途中で止まっていた。当時の川の様子は当然秀吉は知っていたはずで、勝家陣に対し、秀吉不在を演じて作り出した誘いの隙だった。
 

 佐久間盛政、秀吉陣に侵入

 戦いの初期に勝家方に寝返った山路将監が、秀吉陣は正面の神明山の守りは堅いが、その奥の余呉湖東の大岩山の守りが薄いと進言する。戦意の高い佐久間盛政が攻撃を強く志願、慎重派の勝家も押さえきれず認める。ただ秀吉陣の奥深く入るわけで危険が多く、勝家は一定の成果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じる。しかし盛政は秀吉の不在時にできるだけ多くの戦果を挙げようと考えていた。勝家陣には統率力に欠けるという根本的な弱みがあった。瓶割り権六といわれ、織田軍内きっての猛将と言われた勝家も五十を超え弱気な面が現れていた。もっとも信長在命時に勝家が総大将として上杉謙信と戦ったときも秀吉が勝手に陣払いするなど、大将として何か欠けているところがあったのかもしれない。


 中川陣破り、賤ヶ岳に迫る

 4月20日の未明、佐久間盛政は張り切って山中の陣を出る。正面の神明山を西に迂回し権現坂から余呉湖の南側、賤ヶ岳下の湖岸を迂回し、大岩山の中川清秀の陣に攻めかかった。近くの岩崎山の高山右近、賤ヶ岳の桑山重晴に急を知らせ、援護を求める。しかし二人は多勢に無勢と退却、清秀は奮戦するも討ち死にする。初戦の勝利を盛政が勝家に知らせ、全軍での攻勢を求めると、勝家は撤退を求める。

余呉湖畔から見た大岩や岩崎山。奮戦し討ち死にした中川の墓もある 余呉湖畔から見た賤ヶ岳。この麓から佐久間は侵入し、撤退する


 勝家必死の撤退命令

 ここが最初の分岐点だった。もし盛政が素直に退いていれば、最初の対陣に戻り、長期戦となる。勝利で勝家の志気は上がり秀吉軍に動揺が走ったかもしれない。もう一つ盛政の成果を拡大するため、勝家軍全体で攻勢をかける手もあった。盛政の侵入で秀吉前線の天神山の木村勢は孤立した形になっている。ここに勝家本体が攻撃を掛ければ、一気に秀吉軍の前面を壊滅でき、さらに突出した堀秀正軍も陥れることができたかもしれない。ただしこの場合は、勝家本体の攻勢がもたつくと人数に勝る秀吉軍と全面対決となるおそれもある。勝家の本意は、持久戦で守勢をとり、秀吉に攻めさせてチャンスを見つけるという消極戦力だったのだろう。それが若い佐久間には理解されなかったとみるべきか。

 丹羽長秀援軍、秀吉大返

 賤ヶ岳の秀吉軍の窮地を救ったのが琵琶湖対岸の坂本にいた若狭と近江2郡の領主の丹羽長秀だった。2000の兵とたまたま舟で賤ヶ岳方面に向かっていた船上から賤ヶ岳方面で戦が行われているのを知った長秀は部下の反対を押し切って海津から上陸、いったん賤ヶ岳を降りた桑山晴重らと再び登り、拠点を確保した。

丹羽長秀の援軍は琵琶湖を舟で渡って賤ヶ岳に向かった

 大垣で盛政の攻撃を知った秀吉は、急いで木之本に引き返す。街道に松明を用意させ、沿道で炊き出しを行わせる。圧倒的な準備の良さで、あらかじめ事態の変化に備えていたのだろう。午後4時に大垣を出て木之本まで約54キロを5時間後の午後9時に着いたという。

 盛政撤退成功、ところが

 21日盛政軍は秀吉が駆けつけてきたことを知り、撤退を決意する。余呉湖の南側を通り来た道を引き返す。賤ヶ岳に攻勢の準備をしていた勝山城主の柴田勝安がしんがりとなる。この勝安軍に大垣から来た秀吉の本体が攻めかかる。しかし急な行軍で疲れも目立ち、佐久間盛政は大きな被害も受けないまま、権現坂まで戻れた。勝安軍には秀吉の近従が攻めかかる。福島市松、加藤虎之助ら後に「賤ヶ岳の七本やり」と宣伝されるが、実際は勝安隊は被害は受けるものの、佐久間隊と合流することができた。秀吉の追撃も勢いを失い、再び長期対陣の形に戻れそうになった。しかしここで佐久間隊には思いもかけないことが起こった。この合戦の第二の、決定的な転機だった。
 

 前田突然の戦場放棄

 柴田軍の攻勢に合わせて盛政隊のいる権現坂の後方、茂山まで前進していた前田利家、利長隊が塩津に向けて突然単独で後退する。左翼の守りがいなくなり、佐久間隊には田上山から北国街道を通ってきた秀長隊が攻めかかる。新手の勢いをうけて朝から戦い続けている佐久間隊はこらえきれず総崩れとなる。主力の佐久間隊の壊滅を見て、勝家与力の不破勝光、金森長近も戦線を離脱し勝家軍はついに総崩れとなった。

勝家や利家が陣を構えた山々 余呉湖畔にある合戦図



 勝てば官軍、律儀男誕生

 一度も戦わないままの前田利家の撤退は古来いろいろ言われている。秀吉と示し合わせての裏切りや敵前逃亡という見方もあれば、勝家軍の負けを見切っての行動で、山川出版の「石川県の歴史」では「『侍づく』として容認されることであったらしい」と書いている。ただ前田軍がしっかりと守っていれば、柴田軍の壊滅を防ぐ可能性があったことは事実だ。
 ともあれ歴史はこの戦いをきっかけに秀吉の天下となる。となれば前田隊の行動は秀吉の時代に非難されることはなかったはずだ。
 勝家は北庄に向かって撤退、秀吉は22日には利家父子のいる府中に寄せ、降服させ23日に北庄を囲み、24日勝家は妻お市らとともに炎上する天守の中で自刃した。以後前田利家は秀吉政権の中で律儀者を演じていく。


  守勢の勝家、家康と密約か
 勝家本人にとっては満足に戦うことすらできずに終わった賤ヶ岳合戦。その描いていた戦略、作戦はどんなものだったのだろうか。
 勝家が最初に陣取った内中尾山は敦賀と木之本の県境にある。ここに玄蕃尾城と呼ばれる堅固な砦を築いた。約1500平方メートルの本丸を中心に4つの郭があり、土塁や空堀が張り巡らせてある。昨年15万平方メートルを超える広い範囲が国の史跡に指定された。この玄蕃尾城かもわかるように勝家の作戦は山を頼った持久戦だったはずだ。秀吉軍をひっぱり込んで疲労させる。もともと勝家は、籠城戦で名を挙げるなど、攻めより守りが得意なはずだ。
 ただこれでは勝つことはできない。わざわざ近江まで出てきた背景には味方の滝川、神戸信孝らを楽にさせることもあったが、それ以上に家康との密約があったのではないだろうか。家康は後に小牧・長久手の戦いを起こすように天下に野心があり、秀吉を快く思っていない。勝家に主力を引きられている間に家康が侵攻してくれば秀吉は大きくピンチに陥ったかもしれない。それだけに秀吉の策にかかってあっさりと負けてしまったのは無念だったに違いない。