金ケ崎城跡         

   室町期に2度の大きな合戦

 金ケ崎城跡は、敦賀市の旧敦賀港の東端に突きだした小さな半島城の小山にある。現在はこの半島が昔からの旧港とフェリー乗り場などが整備されてきた新港との境になっている。この城跡で室町時代の初期と後期、細かくいうと南北朝時代の中期と戦国時代の末期に大きな戦いが行われた。 
 北陸王朝夢見た新田義貞
 最初の戦いは1336年(建武3年)から始まる。鎌倉幕府滅亡、建武の新政から足利尊氏と後醍醐天皇の2派に別れて激しく主導権が移った南北朝前夜の戦いも、九州から攻め上がった尊氏が5月の湊川の戦いで勝ち、楠木正成が戦死し、後醍醐方の劣勢は明らかになった。そこで比叡山にいた後醍醐は京を明け渡す前に、新田義貞に恒良、尊良の二人の親王をつけて越前に向かわせた。恒良親王はそのとき即位したとい見方もある。後醍醐天皇は尊氏との講和の邪魔になる義貞を「北陸王朝」という空手形を付けて京から追い出した
 

敦賀港の東端にある金ケ崎城跡

城跡奥の本丸に近い地にも石碑がある
 斯波軍に囲まれ籠城
 もともと越前は1334年(建武1)年に義貞の弟、脇屋義助が守護だった地で、大きな期待があったに違いない。しかし現実は尊氏方の斯波高経が越前守護で敵地に向かうようなものだった。あてになるのは敦賀で大きな勢力を誇った気比神宮の宮司気比氏治と南条の杣山城主瓜生保ぐらいだった。
 新田勢は船で琵琶湖を渡り海津からの上陸を目指すが尊氏方に阻まれ、塩津から山道を登った。愛発付近の吹雪で凍死者も出たという。敦賀で気比の案内で金崎城に入った。義貞は越後に子の義顕、杣山に弟の脇屋義助を送り援軍を求めたが、斯波高経の動きは早く途中で引き返した。結局越前のほんの入り口部分の金ケ崎から一歩も勧めない状態で籠城し斯波の軍勢に囲まれることになってしまった。
 義貞は戦前の皇国史観の中では正義とされた南朝の武将として称えられたが、実際は鎌倉攻め以外では負け戦が続き、湊川の戦いでは楠木正成を死に追いやってしまうなど戦術眼には疑問符がつく。
   
欧亜列車通った駅
 金崎城まで敦賀駅からは歩いて20分程度。市内中心部の気比神宮からは10分程度。近くに港から荷を運ぶための引き込み線がのびている。戦前はここに駅があり、東京からヨーロッパを目指した欧亜国際列車から船へ乗り換えた。
  湾になっている敦賀の旧港の東端が金ケ崎だ。港からは小さな丘に見える。城跡に入るには中腹にある金ケ崎神社への参道から上るか、尾根続きの天筒山から来るしかない。いずれも入り口は狭く険しい。この入り口部分を押さえてしまえば、なかなかうち破ることはできない。
 今も堀切跡くっきり残る
 神社の本殿部分は広くなっていてここに「史跡金ケ崎城趾」と書かれた碑や義貞のことを記した看板などがならんでいる。さらに奥に進むと海が見える。神社から急な登り道を進むと本丸跡がでてくる。ここは海抜86メートルともっとも高く、月見崎、月見御殿跡とも呼ばれている。道は両側が深く落ちている尾根道で攻めるのは難しい。また神社の裏手には天筒山に通じる道があり、二の木戸、一の木戸などの木戸跡がある。木戸近くには攻め手が上ってくるのを防ぐための堀切もはっきりと残っている。

 

金ケ崎神宮の境内にある史跡の碑。
案内板もある。

二の木戸近くには堀切も
 狭い道、強固な守備も兵糧尽きる
 城内は道は険しいものの、案外狭い。とても大軍がいたとは思えない。義貞の軍といっても数百人しかいなかったのだろう。だが斯波の攻撃には持ちこたえることができた。京の尊氏は戦況の進まないのを見て、猛将高師泰を送った。翌1337年正月から猛攻撃が始まった。新田勢は3ケ月以上頑強な抵抗を続けてきたが、兵糧や弓が尽き、魚や海草で飢えをしのぐが足りず、毎日2頭ずつ馬を食べたという。
 義貞は弟の義助らと城を逃げ出し、杣山城に援軍を求めた。湊川の戦いと同じ様に主戦場から逃げたと受け止められても仕方がない。杣山にも救援軍を送る余裕はなかった。

月見御殿とも呼ばれた本丸跡
 金ケ崎内は馬も食い尽くし、兵の体力は残っていなかった。高師泰は3月6日に総攻撃。新田義顕は恒良親王を逃そうとする。親王は裏手から小舟で対岸の河野村蕪木に渡った。しかし洞窟に潜んでいたところを捕らわれ、京に送られ翌年殺された。もう一人の尊良親王は新田義顕とともに自害した。