没年に3つの説
     死後は内乱か
 継体が何年に没したのか、はっきりしていません。「古事記」と「日本書紀」では全く異なります。
 「古事記」は527年、43歳で亡くなったとしています。となると生まれたのは480年代半ばということになります。
 「日本書紀」では531年、82歳と長生きしてなくなったとしています。この時代とすれば異様な長寿です。。さらに「書紀」には534年で亡くなったという説のあることも記されています。ともかく継体は450年頃に生まれ、50代後半でようやく即位したという計算になります。
 書紀のいう531年の死去とすると、次の安閑が即位するまで二年間の「空白」が生じます。そこで、欽明と安閑の二朝が並立していたとか、内乱があったとする説も出ています。また、これは学校で習った仏教伝来の年にも関係してくるため古くから論争が続いています。
 
   継体大王関連年譜
 (日本書紀)
450年ごろ 近江で誕生
507年 継体大王が河内の樟葉で即位
511年 都を山背の筒城に移す
512年 任那4県の割譲
518年 都を山背の弟国に移す
526年 大和の磐余玉穂宮に入る
527年 磐井の乱
531年 82歳で死去

   母振姫の里に巨大古墳群
   越前の鉄と若狭の塩
   先祖は?、新王朝か
   今城塚には笏谷石はなかった
   妻は11人うち越前出身は?
   大和より淀川を好んだ?
   没年に3つの説