越前の鉄と若狭の塩

   オホドは製鉄王
 1999年福井市泉田町の弥生時代後期(西暦二〇〇年ごろ)の集落遺跡「林・藤島遺跡」から2千点を超える鉄製品が見つかりました。当時は貴重品だった鉄の工具も1100点と全国最多の出土数で、鉄を加工する鍛冶(かじ)の跡も見つっています。古くから越前が鉄の生産地だったことを示すものです。県内には玉造りの遺跡もあり、鉄と玉を中心とした交易の拠点で、大きな経済力が合ったことを示すものです。これが継体を擁する地域の力となったことが間違いありません。
 立命館大の山尾幸久名誉教授は「継体の通称『ヲホド王』のホドは火処で炉
のことであり、『製鉄王』の意味があった」ということを話しています。

丸岡町の六呂瀬山から
眺めた福井平野の夕焼
け。

  若狭の塩を掌握
 若狭・角鹿(敦賀)の塩も新たに注目されています。
 塩は人に必要なだけでなく製鉄や馬の飼育にとっても欠かせないものでした。この時代の必需品で塩を握ることは大きな力を握ることにつながりました。
  若狭での土器を使った塩生産は、四世紀の終わりごろ、大飯町の浜禰(はまね)遺跡などで始まり、沿岸各地に広がりました。小浜など各地に大きな製塩遺跡があります、5世紀には、大阪湾沿岸の技術をストレートに導入して生産力を向上させていることから、若狭の首長とヤマト王権の緊密な関係がうかがえます。
 若狭には塩に関する伝説が多く残ります。天皇が角鹿の塩を食したという伝承があり、これは、平城宮から、若狭国から特別の塩が納められていたことが記されている木簡が出土して裏付けられています。。
 越前・近江を拠点として立った継体が、若狭・角鹿の塩を掌中に納め、継体新王朝の成立の力としたと考えられます。
 朝鮮との交流拠点
 さらに若狭は、継体の後背地としての武力と文化もありました。若狭では古墳時代中期に立派な前方後円墳が築かれます。越前が山頂に築くのに対し、若狭は、平野部に周溝をもったオーソドックスな形のものが続きます。上中町の向山、西塚、十善の森、丸山塚古墳などから、全国的にも貴重な副葬品が出土。金製の耳飾や馬具などなど朝鮮半島との密接な交流をうかがわせる遺物も多数見つかっています。
 また、継体が活躍したころの若狭の六世紀前後の古墳は、九州的な横穴式石室が用いられているのも特色です。若狭の首長は、ヤマト政権の半島進出に参加しつつ、北部九州とも密接な関係をもっていたと考えられています。
 古墳時代中期以降、日本海航路の発着場は丹後から若狭に代わり、若狭はいまの横浜、神戸のような国際交流拠点、軍事的窓口だったともいわれています。
母振姫の里に巨大古墳群
越前の鉄と若狭の塩
先祖は?、新王朝か
今城塚には笏谷石はなかった
妻は11人うち越前出身は?
大和より淀川を好んだ?
没年に3つの説