大分では名君伝説
  信心深く領民と交流
  
 忠直が配流生活を送った豊後(大分)では、いまなお「一伯公」「一伯さん」と、号で呼ばれて親しまれ、菓子や民謡の題材ともなっています。大分では信仰生活をし、領民と交わるなど、「乱行」とは程遠い姿があります。
忠直が豊後国萩原(現大分市萩原)に着いたのは、1623(元和9)年5月2日。29歳だった。まかない料として、五千石があてがわれます。
萩原の館は、現在は前に埋め立て地が広がっていますが、当時は海に面し、広さ約90メートル四方、周囲を堀で囲まれて厳重に警護されていました。同地域を治める府内藩士とともに江戸から派遣された監視役(府内目付)が、常時目を光らせていたそうです。

  愛人と娘なくす
  この地では越前からつれていった愛人の「お蘭」が死にさらに娘の「おくせ」も亡くすなど世の無常を感じさせるできごとが起こりました。
 
 忠直は、2年半後の1626年、約4キロ内陸の津守に移ります。萩原は海に近く逃走を恐れたためとか、潮風が強いためとかいわれていますが、はっきりした理由は現在では分かりません。
 かつて農村だった居留跡も、現在は住宅地となり「忠直居館跡」の標柱と説明板が立っています。


 津守でも忠直は厳重な監視下におかれましたが、医師や庄屋、村人らと交わることもあり、庶民的な生活を送ったとされています。 寺社への数々の寄進の記録が残っています。居館に隣接してあった熊野権現社に、全長180メートルに及ぶ「熊野権現縁起絵巻」を奉納。西光寺には、忠直の子、松千代の病気回復を祈り、観音堂を寄進しています。寺のそばには、忠直が茶の湯に用いた「弁天の清水」というわき水があった。また、円寿寺には、忠直が 越前から送らせたとみられる「厩(うまや)図びょうぶ」(大分県指定文化財)が残っています。
 忠直は1650年9月10日、56歳で津守の館で病死します。墓は大分市内の浄土寺にあり愛人お蘭ととも並んでいます。忠直が生前に作ったもので八角形の形をし、表面に四角い幾何学模様が刻まれているユニークな墓です。
中央が忠直、左がお蘭
 
 旧津守村の記録によると、一周忌、三回忌、七回忌など忠直の法要が行われ、1749年の百回忌でも村を挙げて盛大な法事が営まれました。300年、350年の法要も大分で盛大に営まれました。
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