大坂夏の陣
忠直奮起し幸村討つ

 忠直が合戦を大きな功をあげたのが大坂夏の陣です
 合戦の舞台となったのは大阪環状線の天王寺駅の北方にある上町台地と呼ばれる細長い丘陵地です。大坂方五万五千人は大阪城まで続くこの台地の登り口に陣取り、徳川方十五万人は台地を取り巻くように配置されていました。1615(元和元)年5月7日大坂夏の陣最後の戦いが行われた。豊臣方の主役をが真田幸村、徳川方は越前北庄藩の松平忠直が勤めました。
忠直は祖父の徳川家康から前日の道明寺口の戦いで、味方の伊達藩らが苦戦したのに忠直は援軍を出さなかった強くしかられます。半年前の大坂冬の陣で「命令もないのに勝手に動いた」と非難されたため、今回は自重していたためです。
 それを越前兵は昼寝でもしていたのか」と口汚くののしられ、奮起します。


  大阪城総攻撃で「もう配置は決まっている。越前兵の場所はない」とまで言われ、抜け駆けを決意します。未明、1万5千人の越前兵は夜陰にまみれて動き出します。
 先鋒に指定されていた前田利常や井伊直正らにとがめ立てされてもしゃにむに前に進んでいきます。夜が明けたとき目の前には現在天王寺公園の一角にある茶臼山に陣取る真田幸村の軍兵がいました。
幸村の陣を目の前に忠直は落ち着いて朝飯を取ります。「討ち死にしても餓鬼道へはおちず」と前夜の動揺からうって変わって覚悟が定まっていました。
国宝となっている「夏の陣合戦図」では赤いのぼり旗を立てた幸村の陣に忠直の軍は激しく打ちかけます。黒い馬にまたがる忠直もはっきりと描かれている。この戦いの様子は大阪城内に展示されている多数の模型を使ったジオラマで再現されています。


幸村も奮戦し、小人数の決死隊で忠直の陣を突破し後方の家康の本陣に突撃し、一時は家康が危ういところまで追いつめます。しかし力つき茶臼山後方で忠直の家臣西尾仁左衛門に討ち取られます。
  大阪城一番乗り
 大阪城一番乗りを果たし、討ち取ったのは3750首。徳川方一番の手柄で家康、秀忠に京都二条城で「天下に並ぶものない功労」とほめられ名品とうたわれた「初花」の茶器を贈られます。しかしその後の恩賞はありませんでした。
 「かかれかかれ越前衆、たんだかかれ越前衆、命知らずのツマ黒の旗」。
 こんな歌が一時大阪付近ではやったといわれています
 忠直の謎メインページへ戻る
 北陸歴史の謎 探偵団へ戻る
 
  「夢の中の森」へ