太平記巻の11

初めて北陸が合戦の舞台となる

北国の探題淡河右京亮時治自害の事

 巻の11では初めて北陸を舞台に合戦が繰り広げられる。六波羅攻めに合わせて、各地で反北条の蜂起があり、北陸も騒がしくなった。北陸探題の淡河右京亮時治が北陸を鎮圧するため越前に下り、現在の大野市牛原に入る。淡河時治は北条義時の弟時房から出た北条一門と見られる。
 牛原がある大野は越前でも岐阜側で国府や守護所のあったとみられる府中(現武生市)からはかなり遠い。なぜこの地なのか、考府中方面が反乱軍に抑えられて避け、岐阜側から越前入りしたとも考えられる。この地で大きな勢力を持っていた平泉寺の力をあてにしたのかもしれない。牛原は福井から大野方面への入り口の花山峠のすぐしたに位置する。
 「京の六波羅が攻められ時、北国の探題淡河右京亮時治、北国の蜂起を静めんがため、越前国に下って、大野郡牛原(現大野市牛原)といふ所に御座しける」。
 しかし 六波羅が落ちたという情報が入り従う兵は瞬く間に減ってしまい、わずかな家来と家族だけになってしまう。そこへ平泉寺の衆徒が裏切り寄せてくる。



 「相随ふ兵、片時がほどに失せて、妻子・従類の外事問ふ物もなかりけり」
 
 淡路時治は雲霞のような敵を見て、持ちこたえられないだろうと思い、近くの僧を招いて女房や子供にも額にかみそりを当てて受戒させ、後生菩提を祈る。「二人のこどもは幼くとも男子なれど、敵よも命を助けじと覚ゆる間、同じ冥土の旅に伴ふべし。御身は女性にて、命失ひ奉るまでの事はよもあらじ」と時治は子供二人とともに死に女房を逃がそうとするが女房は聞かない。
 平泉寺の衆徒らは九頭竜川にかかる「箱の渡し」を越えて勝山から大野に入り、淡路らのいる地の後方の山に回った

 九頭竜川の箱の渡し。河が狭くなっている。
 昔はひもに箱を吊して渡ったという

 平泉寺の衆徒がやってきたことを聞いて、一族は死出への旅に出る。幼い子供二人を鎧唐櫃に入れて「鎌倉河の淵」に沈める。母の「この河は極楽浄土の八功徳池とて、少なき物の生まれて遊び戯るるところなり」との言葉を聞いて、子供は「念仏の声もしどけなく十反ばかり唱へ給ひて」、西に向かって座わり、それぞれ乳母に抱かれ碧い水の底へ紅の泪を流して飛び込んだ。母もその後を追う。その後時治は腹を十文字にかき切り西枕に横になった。この淵は九頭竜川と真名川の合わさる大野市西市付近と考えられているが今でははっきりと場所はわからない

大野市牛原のJR越美線の牛原駅。福井市からくるとここが大野市の最初の
駅となる。
鎌倉淵は大野市西市付近と見られるが
場所ははっきりとしない。


 越中守護名越時有も自害
 
 越中守護名越遠江守時有と弟の修理亮有公、甥の兵庫助貞持が出羽、越後の敵を防ごうと越中の二塚(現高岡市二塚)に陣取っていた。六波羅が落ちたとの情報で能登、越中の勢と放生津(新湊市放生津)へ引く。しかし味方は次々と逃げだし残るは親族と譜代の70人だけ。女子供は舟に乗せ、海に身を投げさせる。時有たちは城の中で全員が自害した。特に甥の貞持は恋女房と結ばれて日が浅かったため、「夫婦執着の妄念を遺しけるにや」後に越後から京に上る商人船に亡霊となって現れる。


 
  太平記の袖舞台