太平記巻の13
 

 
 後醍醐打倒の計画、北陸でも合戦 
 中先代の乱など隠れていた北条の反撃が始まり、北陸でも北条残党が立ち上がる。

西園寺温室の事
 建武と年号が変わった後、後醍醐の親政は訴訟などが滞る。
 北条高時の弟で生き残っていた四郎恵性が京に上り、権大納言西園寺公宗の館にかくまわれる。恵性は時興とを変え、北条再興の計画を立てる。
 時興は畿内近国の兵を集め、高時の2男時行を鎌倉の大将とし、甲斐、信濃、武蔵、相模の勢を付ける。さらに越中守護だった名越時有の息子太郎時兼を北国の大将として越中、能登、加賀勢をぞ集めるというもの。そして西園寺家に後醍醐天皇を招いて湯殿で殺すという陰謀を巡らした。
 
公宗卿琵琶の秘曲を弾くこと
 しかし事前に察知され公宗は殺される。北条の残党は関東、北陸に逃げてなお素懐を達しようとする。名越時兼のもとには野尻、井口、長沢、倉光らの武士が集まり、越中、能登、加賀の軍勢六千余騎まで膨れあがった。なった。
 
 眉間尺かんばく剣の事
 中先代の乱が起こりいったん北条時行が鎌倉を奪うが、足利尊氏が下って奪い返す。
 北陸の名越時兼は3万騎を率いて京を目指す。しかし越前、加賀国境の大聖寺で敷地(加賀)、上木(加賀)、山岸(三国)、瓜生(南条)、深町(金津・坪江)の加賀、越前勢に防がれて討ち死にする。ここで登場する瓜生は後の金ケ崎を巡る合戦で重大な役割を発揮する瓜生保かその一族とみられる。合戦がどこで行われたかは書かれていない。

白山がくっきり見える加賀市。戦いがどこかはわからない



  「名越太郎時兼が北六道を打ち随へて、三万余騎にて攻め上がりしも、越前と加賀の境大聖寺といふ所にて、敷地、上木、山岸、瓜生、深町の物どもに支えられて、打たれにけり」
   


 
  太平記の袖舞台