太平記巻の14

 義貞敗れ、越中でも挙兵

義貞朝臣節度使の事 
 
 鎌倉の尊氏を討つため、新田義貞を大将とする軍が派遣される。舎弟脇屋義助らの一手の大将として参戦する。
 
 箱根竹下合戦の事
 矢作川で敗れた足利軍は謹慎していた尊氏が加わって志気が高まり、箱根と竹下(足柄山)に分かれて防ぐ。直義を大将とする箱根には足利高経、舎弟式部太夫時家、土岐頼遠らが陣取り防ぐ。

 諸国の朝敵蜂起の事
 義貞が竹下で敗れ、諸国に反後醍醐の兵が挙がる。
 
 北陸からは能登国石動山の衆徒が早馬を立てて京に反乱を知らせる。
 越中の守護普門年清が尊氏の御教書を得て越中の国侍らと立ち上がる。国司中院貞清は要害の石動山に立て籠もるが多勢に無勢で石動山は焼かれてしまう。石動山は越前の平泉寺が節操を持たずにすぐに味方を裏切って生き延びようとしたのに対し、ずっと律儀だったようだ。
 「11月27日、越中国の守護普門蔵人利清、野尻、井口、長、波多野、足利殿の御教書を帯して、両国の勢を催し、叛逆を企つる間、国史中院中将定清、用害に就いて当山に立て籠もる。12月12日、逆徒大勢にて押し寄せ攻め戦う間、衆徒義卒に与して身命を軽んずといへども、一陳つひに敗れて、定清戦場において命を堕とさる、寺院ことどとく兵火のため回禄せいめ了んぬ」。
 
 さらに加賀国の富樫介や伊与、長門など各国の挙兵の知らせもある、神田本の太平記には越前で尾張守高経の家人の挙兵もかかれている。


 
  太平記の袖舞台