太平記巻の17の1


 後醍醐天皇、義貞を裏切る
 巻17の初めは比叡山にこもった後醍醐方と尊氏の激しい戦いが展開され、劣勢に立った後醍醐天皇は義貞を切って尊氏と和睦する。

 尊氏山門攻めの事
 1336(建武2)年5月、後醍醐天皇が比叡山に2度目の臨幸し立て籠もる。尊氏は20万で攻めようとする。吉良、石塔、渋川、畠山を大手の大将とした5万を三井寺の跡から大津など琵琶湖側に配置。搦め手へは足利尾張の守を大将とし、仁木、細川、今川、荒川、四国・中国の勢8万余騎が雲母坂側に展開する。さらに高一族や岩松、桃井を大将とした10万騎が八瀬、修学院、北白川と囲む。
 この表現を見る限り、足利(斯波)高経は同じ一門の細川、今川よりは格上だったと考えられる。
 高、吉良勢が比叡山の両側から攻めようとするが守りは堅く攻めあぐねる。(p333)
 

 般若院の童神託の事
 斯波高経が北陸勢を率いて攻めるとの情報で比叡山は守りを固める。
 「越前守護尾張守高経、北陸道の勢を率して、青木より押し寄せて、横川を攻むべしと聞こえければ、……所々のつまりつまりに関をこしらえ、逆木を引いて、用害をぞ構へける」
 はじめて越前守護という言葉が高経に関して現れる。青木は現在の大津市仰木。堅田側を指す。この場合は先の記述とは違い北陸道の勢となっている。ただ実際は攻撃は行われなかったとみられる。

 京都初度の軍ならびに2度京へ寄する事
 後醍醐勢にも北陸勢が登場する。瓜生、川嶋などの名が出てくる。
 「二条大納言師基卿、北国より、敷地、上木、山岸、瓜生、川嶋、深野以下の物ども三千騎を卒して、七月5日坂本に着き給ふ」

 これに勢いを得て比叡山から京に反転攻勢をかける。しかし官軍も数度の攻撃に敗れる。
 
 義貞京都軍の事
 官軍は二手に分かれて攻勢をかけるが連携に失敗。各個撃破され、義貞も苦しい戦い。尊氏に一騎打ちを挑むが尊氏側近の進言で拒否され、やっと坂本に逃げ帰る。比叡山は足利高経らに北陸、美濃などから糧道を断たれ飢える。
 「北国の道をば、足利尾張守高経馳せ下って指し塞ぎ、人を通さず近江国には小笠原信濃守、野路、篠原に陣を取って、湖上往返の船をとどめける」

 堀口還幸を抑へ留める事
 尊氏から後醍醐へ密使がきて和睦を持ちかける。後醍醐は義貞らを見捨てて京へ戻ろうとする。義貞の一族の江田行義と大館氏明も後醍醐に従って比叡山を降りようとするが肝心の義貞は何も知らされていない。そこへ洞院実世卿からの使いが来るがそれでも義貞は信じようとしない。一族の堀口貞満があわてて確かめに行き後醍醐が出発直前なのを知る。貞満はこれまでの義貞の忠節と働きを述べて新田を見捨てるなら義貞ら50人の首をはねよと迫る。
 「そもそも義貞が不義何事にて候へば、多年粉骨の忠功を思し食し捨てられて、大逆無道の尊氏に叡慮を移され候ふぞや。……義を重んじ命を落としし一族130余人、節に臨んでかばねをさらす郎従八千余人なり。今洛中数カ度の戦ひに朝敵勢い盛んにして、官軍しきりに利を失ひ候ふ事、全く戦ひの咎にあらず、ただ帝徳の欠くる所に候ふかによって味方に参る勢のすくなき故にて候はずや」
 後醍醐の責任をも追及する。

 北陸王朝の誕生?越前下向を命ずる
 儲君を義貞に付けらるう付けたり師子丸を日吉へ進ぜらるる事
 義貞は子の義顕、弟の義助とともに兵三千を伴って参内。後醍醐天皇は尊氏との和睦は一時でしばらく時期を待つとし、義貞に越前に下れという。越前には川島維頼を先に下しているから問題ないとし、気比神宮の神官が敦賀港に城を構えて味方するという。さらにこのままでは義貞が朝敵となってしまうとし、皇太子に天皇の位を譲り義貞とともに北陸へ下すと述べた。
 「北国を打ち随へ、重ねて大軍を起こして天下の藩屏となるべし。ただし、朕京都に出でなば、義貞かへつて朝敵の名を得つと覚ゆる間、春宮に天子の位を譲りて、同じく北国へ下し奉るべし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕にはからず、この君を取り立て進らすべし。」
 いわゆる北陸王朝の誕生だ。ただし、三種の神器など正式に位を譲る儀式が行われたとは書いていない。
 義貞は新田氏重代の刀、獅子丸を日吉神社に奉納し子孫に託す。
 10月10日後醍醐は輿にのって京に還幸し、皇太子は馬に乗って越前に向かう。
 「主上は用輿に召されて今路を西へ還幸なれば、春宮は竜蹄にめされて、戸津を北に行啓なる」。
 北へ向かったのはあくまでも皇太子だ。義貞ら武家以外にも一宮中務卿親王、洞院実世、三条泰季らが従った。
 京へ降りた一行は武装解除させられ、後醍醐は軟禁される。


 
  太平記の袖舞台