太平記巻の17の2

 厳寒の山道を敦賀凍死行 ルートは?
  
 北国下向凍死の事
 義貞らは七千騎で敦賀に向かい12月11日近江の海津に着く。ここから7里半の山道を越前守護の足利(斯波)高経が塞いでいるとの情報で木ノ芽峠に向かう。しかし北国は10月初めから山の高嶺に雪が降り麓は時雨れる。特にこの年は冬が早く、寒さが厳しかった。雪で谷間の路に迷い、木の下や岩の影に縮こまり、弓矢を焼いて薪とし、友と離ればなれにならなかったら抱きついて暖めあった。薄着だった物たちや、飼い葉与えられなかった馬は凍え死んだ。
 「義貞朝臣七千騎にて、海津に着き給ふに七里半の中山をば越前国の守護足利尾張守高経大勢にてさし塞ぎぬと聞こえしかば、これより路をかへて、木目峠をぞこえられける。……今年は例より陰寒早くして、風まぜに降る山路の雪甲冑にそそぎ、鎧の袖を翻して、面を撲つことはげしかりければ、士卒寒谷に道を失ひ、暮山に宿なくして木の下岩の陰にぞ縮まり伏しける」
 
 気象学的にはこの年は特に寒さが厳しかったという研究もある。 
 河野、土居、得能は200騎で後陣にいたが、見の曲(けんのくま=滋賀県高島郡マキノ町)で遅れ道を見失い塩津の北に降りた、佐々木一族とらに囲まれ、相差し違えて死のうとしたが、凍えて刀を握れず柄を地面に立てその上にうつぶせになって死んでいった。
 千葉貞胤は敵の陣に迷い込みまとまって自害しようとした。足利高経から「弓矢の道はここまで。我が陣にくれば、身に替えて許しを得よう」と丁寧に使者を使わされ、心ならずも降参した。

 義貞ようやく敦賀着金ケ崎へ
 

義貞を助けた気比神宮。
  気比弥三郎はともに金ケ崎にこもる。
 敦賀湾に突き出た金ケ崎城跡。
  現在は周囲は開発が進んでしまった。


 義貞は13日敦賀に着き気比神宮大宮司、気比弥三郎300騎に迎えられる。東宮・恒良親王、一宮・尊良親王、義貞らが金ケ崎城に入る。後詰めのため息子の義顕は北国の2000騎を伴って越後へ下り、脇屋義助は瓜生保のいる杣山(現在の南条町)へ向かう。
 敦賀に入るのに木の芽峠を通ったことになっているのが、この記述のは古くから疑問が持たれている。木ノ芽峠は敦賀の東側にある。近江側から正反対の方向だ。本当にここを通ったのか。

 もし太平記の記述が間違っているとするなら可能性としては木の芽峠ではなく別の迂回路を通ったのかもしれない。
 たとえばマキノ町の海津から古くから敦賀の野坂山の麓を流れる黒河川沿いの谷を通る道があった。ここを通ったとも考えられる。この方が敦賀へはずっと近道だ。ただそこなら太平記に書かれているように塩津を通る必要はない。
 
 栃の木峠から木の芽峠の大迂回路か
 太平記の記述を素直に読むと、湖西、すなわち南西からきた新田勢は、山中を通る現在の国道161号線を封鎖されたため大きく東に迂回したことになる。考えられるコースとしてはマキノ町の海津から西浅井町の塩津、余呉湖付近を通って現在の福井-滋賀県境の栃木峠を通りそこから山中を木の芽峠に抜けるという大迂回路だ。厳しい雪の中、もしこの道を通ったとしたらたしかに大勢の凍死者がでるのも止む得ないかもしれない。
 昔の北陸道の難所だった木ノ芽峠、戦国時代以降はメーン道路となる北国街道の難所の栃の木峠、全く別の道のように見えるが、実際は峠の頂上からは割と短い距離で尾根伝いで行き来できる。
 ただ義貞が海津を11日に出発し、敦賀に着いたのが13日。わずか2日間でこの大迂回路を抜けたことになる。ざっとみても50キロ以上の道のり。雪の行軍で可能なのだろうか。この点は少し気になる。

 太平記を呼んでいくと、越前の記述は全般にかなり正確なことがわかる。足利政権で力を持つ越前守護の足利(斯波)高経親子の活躍もあって、正確な証言が多く得られたのだろう。とすると、古くから有名な峠名を間違えるはずがないとの考え方もできる。現時点では太平記の記述通り栃の木峠から木の芽峠越えという大迂回路を通ったと考えたい。
 


 
  太平記の袖舞台