太平記巻の18の2

 
瓜生保 金ケ崎目前で戦死

 瓜生勢の攻勢で足利高経は府中を追われる。さらに瓜生は金ケ崎の救援に向かうが手前で高師泰勢に討ち取られてしまう。  

 金崎後攻の事
 北国への道がふさがり、後ろに敵がいたのでは金ケ崎を攻めるのは困難と足利高経は北陸道4カ国の兵三千を率いて11月28日蕪木(河野村)から越前の国府へ帰った。瓜生は敵を休ませるとよくないと次の日三千余騎で押し寄せ一日一夜責め戦い高経の立て籠もった新善光寺の城を落とした。この時の討ち取った三百人を生け捕った百三十人の首と合わせて帆山河原(武生市帆山町の日野川河原)にならべた。
 脇屋義治の勢いが次第に強くなると平泉寺、豊原の衆徒さらに越前やほかの国の地頭、ご家人たちも集まってきた。しかし義治の表情はさえず義鑑房が「どうしてもっと勇ましそうな様子ではないのか」と尋ねると「皇太子や新田一族が金ケ崎に閉じこめられて兵糧もなくなっているかと思うと珍しい食べ物にも味がなく、酒宴も楽しめない」と答えた。義鑑房らは頼もしく思い「今は吹雪があまりにも激しくて徒歩での長い道のりは無理だが天気の晴れ間を待ちたい」と答えた。
 1月の正月7日の祝いが終わり11日雪がやんで寒波が緩んだため新田一族の里見伊賀守を大将として義治は五千余人を金ケ崎救援に向かわせた。一行は吹雪の用意をし鎧の上に簑笠を付け寒じきをつけて山道8里を踏み分けて敦賀の葉原まで着いた。高師泰もわかっていたので敦賀から20町の要害の地に今川駿河守を大将として二千余人を向かわせてあちこちに垣楯を並べて待ち受けた。
 夜が明けてまず宇都宮・紀清両党の三百人が押し寄せて坂の途中にいた千余人を遠くの峰まで追いやった。第二陣にかかろうとしたところで左右の峰の大勢から射かけられて来たの峰に引いた。続いて瓜生・天野・斎藤・小野寺の七百余人が切っ先をそろえて上がっていき駿河守の守りを三カ所で破った。しかし駿河の守が後退した後高師泰の三千余騎が新手として登場、瓜生・小野寺勢が引いて宇都宮勢と一緒になろうとした。
 これを見た大将の里見伊賀守はわずかの兵を率いて「醜いぞ戻れ」と横から攻め入った。敵はこれが大将だとみて葉武者にはかかわらず取り囲んで討ち取ろうとした。瓜生保と義鑑房は「ここで討ち死にしないと味方は助からない」と敵の中につっこもうとした。保の弟の重、照らも続こうとすると義鑑房は「我ら二人の討ち死には一時の負け、兄弟みなが討ち死にしたら将来へも負け」ととどめ、里見、瓜生、義鑑房が一緒に死んでいった。
 「日ごろ再三謂ひし事をば、何の程忘れけるぞ。我ら二人討ち死にしらたんは、いったんの負け、兄弟残らざんは長き世の負けにてあるべきを、思い籠むる心のなかりける事の云い甲斐なさよ」

敦賀市樫曲の瓜生保戦死の地の碑 樫曲の集落。周囲は山で中央に木の芽川が走る

 敦賀市樫曲の山の麓に瓜生保戦死の地の看板が立ち、市の史跡に指定されている。この場所から1キロほど進むと、金ケ崎に連なる天筒山の裏側に着く。中池見と呼ばれる湿地で、後に織田信長が金ケ崎・手筒山に立て籠もる朝倉勢を攻めたときは、守りの弱かったこの湿地から一気に攻め上がって朝倉を降伏させた。土地をよく知る瓜生保らもこの裏手から金ケ崎への救援に向かおうとしたのだろうか。

 瓜生判官老母の事

 敗軍の兵が杣山に帰ると討ち死に53人、けがをしたのが五百余人だった。みながなき悲しむとき瓜生保の母の尼君は全く悲しみの様子を見せなかった。「敦賀へ向かった者の不覚で里見殿を討たせてしまった。これを見て兄弟みなが無事に帰ってきたらいっそうの情けなさが募るだろうが、判官叔父甥の三人がおともをし、三人は大将(義治)のために生き残ったのは嘆きの中の喜びと思えます」と涙を流しながら自ら酒を勧めたので気力を失っていた兵たちも勇み立った。
奥の杣山城の麓に瓜生の館があったと考えられる。
後のの室町時代中期に作られた屋敷跡が発掘されている

 


 
  太平記の袖舞台