太平記巻の19の1

源氏一門日野川挟んでの決戦

 北国蜂起討手を下さるる事 

 足利高経北陸道を指揮し杣山攻め

 1338年8月28日 足利尊氏が正2位征夷大将軍となり、直義が征東将軍となる。杣山城の麓の瓜生館に逼塞していた新田義貞と脇屋義助が諸国に密かに使者を送ると足利の軍を抜け出すものなど3000騎の兵力となった。このことが京都に伝わり、足利高経、舎弟伊与守高家を大将軍として北陸道7カ国の兵6000余騎を添えて越前に下した。
 北陸道7カ国とは若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡を指す。
 しかし杣山は山が高く要害で攻めきれず、府中(武生市)に大軍勢が集まり、大塩、松崎あたりで日々夜々合戦が行われた。大塩、松崎はJR王子保駅に近い武生市大塩、同松崎付近でここに瓜生一族が宮司をつとめた大塩神社があり、近くの山城に新田勢が軍を置いた。

瓜生一族が宮司を務めた大塩八幡宮 拝殿は重要文化財に指定されている

 平泉寺の一部が義貞方へ

 そのとき加賀の敷地伊豆守、山岸新左衛門尉、上木平九郎らが畑時能の誘いに応じて越前と加賀の境の細呂木(金津町細呂木)に城を構え、津葉五郎の守る大聖寺の城を攻め落とし加賀全体を奪った。敷地は加賀市敷地に本拠を置く武士、山岸は三国町山岸の武士でともに藤原南家工藤流。畑は巻15の三井寺合戦で登場した力自慢。津葉は加賀市津波倉町付近の武士と見られる。
 これまでは平泉寺は二心なく将軍方だったのに、南朝方の攻勢をみて半数以上が宮方の味方となり三峰(鯖江市戸口)に出て城を構えた。さらに伊自良次郎左衛門が三百騎でこれに加わり、三峯付近の地頭、御家人は防ぎきれず、家に火を放って府中へ落ち集まった。北国はいよいよ動乱が激しくなってきた。

福井と鯖江の境にある三峯城跡 義貞の越前の案内者河島維頼の本拠地鯖江市川嶋と
三峯城は近い

 三峯から杣山に大将を一人寄越してほしいとの使いがきて、義貞は脇屋義助に五百騎を付けて送る。さらに義貞の使者が加賀国へきて、敷地、上木、山岸、畑、結城、江戸、深町の加賀と加賀国境に近い越前の武士が新田一族の細屋右馬助を大将に越前に侵攻し長崎、河合、河口の3カ所に城を構えて府中を攻める構えを見せた。長崎は現在の丸岡町長崎、河合は福井市河合、河口は興福寺の荘園だった芦原、金津、三国一帯を指す。九頭竜川以北はすっかり義貞方の勢力圏に入っていたことがわかる。
 対する足利高経は六千騎で府中に立て籠もっていたが、一カ所に集まっていたのでは兵糧が尽きると三千騎に減らした。まだ雪も深く馬の足も立たないため、一日合戦が行われただけだった。
 
 脇屋義助が鯖江へ威力偵察
 年が明け、二月になって寒さもゆるみ脇屋義助は「時もよくなった。府中に近づき敵の行き来する道を遮って戦うためにはどの要害の地がよいだろうか」と自ら百四,五十騎で鯖江の宿に向かった。
 名将が小勢で出てきたのを良い機会だとだれかが告げたのだろうか、府中から鹿草彦太郎を大将に五百騎が出て鯖江の宿に押し寄せた。三方から一人も逃すまいと取り囲んだ。
 脇屋義助は前後を囲まれ、逃れられないと覚悟し、全員が心を一つにし、気力を失わず、高木(武生市高木町)の松原を後ろに、瓜生(武生市瓜生町)のあぜ道を左右に見て矢を惜しまずに射た。敵が射かけられて馬の足が止められないところへ轡を並べて攻め込んだ。少しも敵に休ませず攻めたので鹿草彦太郎はかなわないと思って鯖江の宿の後ろの川の浅瀬を渡って対岸へ引いた。
 「脇屋右衛門佐、前後の敵に囲まれて、逃れぬ所なりと思ひ切り玉ひければ、中々心を一つにして、少しも機を撓まず、後ろに高木の松原を当て、左右に瓜生縄手を前に当て、矢種を惜しまずさんざんに射る」

武生市瓜生町付近。ここに瓜生の拠点があった 武生市高木町から瓜生町方面をながめる

 結城上野守や河野七郎、瓜生保の息子の瓜生次郎ら8騎が川の急なところから渡って鹿草を追おうとしたが脇屋義助は「小勢が大勢に活のはいっときの奇跡だ。難所に向かって敵を攻めようとすれば水の利を失い敵はかえって調子に乗る。今日の合戦はふいの出来事なので遠くの味方は知らず、すぐに援軍はこない。この付近の家に火を放ち合戦有ることを知らせよ」と命じた・篠塚五郎左衛門が向かって高木、瓜生、真柄、北村の20数カ所に火を掛け、煙は天高く上った。
 
 日野川を挟んで本格決戦
 各地の宮方はこれをみて鯖江付近で戦があることを知り、宇都宮泰藤、天野雅貞が鯖浪(南条町鯖並)から三百騎で、一条実朝が飽和(南条町阿久和)から三百騎でやってきた。瓜生重と弟照は五百騎で妙法寺の城(武生市妙法寺町の山城)から、平泉寺の僧兵三百騎は大塩(武生市大塩)の城から、河島維頼は三百騎で三峯城から下ってきた。総大将新田義貞も千騎で杣山から出陣した。
 宮方が総結集したとの知らせでまだ川端にいる味方を討たすなと足利高経と弟の伊与守家兼が三千騎を率いて国分寺の北へ出陣した。両者は約十町の距離で間を日野川が隔てていた。
 日野川はそう大きな川ではないが雪解けで水かさが増し急流となっていたので互いに浅瀬をさがしているところに新田方の船田長門守の若党の葛新左衛門が「この川は増水で新しい州ができ、土地勘のないものは失敗する。私が瀬踏みしよう」と白芦毛の馬でただ一騎背理白浪を立てて泳がせた。これを見た三千騎が一斉に入り、弓の両端を持ち合い馬の足の立つところは手綱を緩めて歩かせ、足の立たないところは頭をたたいて泳がせて一気に向こう岸に渡った。葛新左衛門は味方より二町余り先に渡ってしまったため敵に馬の両膝を切られて徒歩となった。
 敵味方とも三千騎、大将はともに源氏一門の棟梁で、馬を走らせるにはよい場所で敵味方入り乱れて一時間余り戦った。
 「寄せたる敵も三千余騎、防ぐ兵も三千余騎、大将は何れも伝代武略の名を惜しむ源家一氏の棟梁なり。しかも馬の懸け場はよし、敵御方入り乱れ、追つ返しつ、半時ばかりぞ闘ひたる」

足利高経の拠点だった新善光寺城の
後に立つ武生市京町の正覚寺
正覚寺の門は前田利家や本多富政のいた府中城の
門を移築したもの

 新善光寺城燃える
 
 がっぷり四つの闘いで勝負がつかないと思えたときに穂山川原(武生市帆山町)から迂回してきた三峯の河島勢と大塩の平泉寺勢が足利方の後ろに周り府中に火をかけた。高経は拠点の新善光寺城に敵をいれまいと引き返した。義貞はこれを追いかけ息継ぐ間もなく攻めた。城に入ろうとした高経勢は自分たちがつくった関や逆茂木に阻まれ、城に入る余裕もなかった。城内の伊与守家兼の兵千騎は若狭を目指して引き、高経は織田、大虫を回って足羽(福井市)の城へ入った。

 この一日の合戦で国府の城が落ちたというので高経方の城三十余箇所が戦わずして降参した。

  


 
  太平記の袖舞台