太平記巻の19の2


北畠顕家、義貞避けて憤死

阿春宮柳営禁殺の事 
 新田義貞が杣山から立って足利高経、弟伊与守家兼の府中の城が落とされ、多くの兵が討ち取られたとの知らせ尊氏、直義は大変なこととあわて「今回のことは皇太子が義貞らは金ケ崎で腹を切ったといったのを信じて杣山への討手が遅れたからだ」とし将軍の宮とともに毒を盛って殺そうとする。宮は毒が入っていると知りながら毎日法華経を唱えながら食事を続け、相次いで亡くなった。
 一方で義貞の攻勢を聞いて大館氏明は伊与で、江田行義は丹波で、金谷経氏は播磨で兵を挙げるなど南朝が勢いを盛り返した。
 
 相模次郎時行南朝に参る事
 北条高時の次男、時行が吉野に使いを送り帰依を申し出る。南朝方はすぐに恩赦の綸旨を渡す。

 顕家卿再び大軍を起こして攻め上がる事
 北畠顕家奥州から再上洛

 奥州国司の北畠顕家は建武3年の合戦に敗れてからは伊達軍の霊山の城一つだけを守る状態だったのが後醍醐帝が吉野に移り、義貞の勢いが盛り返したとの話が伝わり再び従う兵が多くなってきた。
 顕家は好機到来と武士を集めると結城上野入道をはじめ伊達、信夫、南部、下山の軍勢六千がはせ参じた。勢いづいて三万で白川関を打ち超えると奥州54郡の大半が従い太平記は五十万騎となったとする。8月18日白川関を超えて下野に入ると鎌倉では尊氏の息子義詮がまだ幼いのを上杉憲顕、細川和氏らが支えていたのが、待ち戦では勝てないと武蔵、相模の勢八万で利根川で防ごうとした。しかし奥州勢の勢いが勝り、義詮は鎌倉に引いた。
 顕家には北条時行や新田義貞の次男、徳寿丸、後の義興らも加わった。
 鎌倉には義詮を上杉憲顕、高経の長男の斯波家長、桃井直常、高重茂ら七千騎で守っていた。寄せての十万騎とは大差があり、一方の大将の斯波家長は杉本の観音堂で腹を切り、義詮を守って高、上杉、桃井らは逃げた。顕家は勢いづいて上洛、五十万騎の兵で海道に家も草木も残っていないありさまとなった。

 上杉桃井上下長途に於いて合戦の

 鎌倉で敗れた上杉、桃井、高らは再び兵を集めて顕家を追う。顕家が垂井、赤坂まで進んだとき上杉らの動きが伝えられ、「まず後ろの敵を退治しよう」といったん美濃・尾張国境にもどって陣を構えた。関東勢は8万五千を五つの舞台に分け、小笠原信濃守貞宗・芳賀入道禅可、高重茂、今川入道心省・三浦高継、上杉大輔・藤成、桃井直常・土岐頼遠らが次々と攻め掛かり土岐頼遠らは刀傷を負うなど懸命に戦ったが墨俣川を破れなかった。
 この青野が原の合戦で関東勢が敗れたとの知らせで京はあわてふためくものの高師泰の進言で高師泰、師冬、細川頼春、佐々木道誉らの迎撃部隊一万余騎が近江と美濃の境の黒血川(岐阜県関ヶ原町)で待ち受けた。川を背負った背水の陣に構えた。
 
 国司伊勢国を経て芳野殿へ参る事
 顕家 義貞との合流避ける
 顕家は黒血川の敵と戦うか、それが難しいなら越前に向かっていったん引き返して新田義貞と合流して京を目指すという選択もあったが、顕家は功績が義貞の忠功になることをねたんで北国に向かわなかった。連戦で兵も疲れ黒血川を破ることもできないだろうと伊勢から吉野を目指すことにした。
 「越前国に新田義貞・義助、北国を打ち順えて、天をめぐらし地を略する勢もっぱらさかんなり。奥勢黒血の陣を破らん事難儀ならば、とって返し越前へ打ち越えて義貞と一になり、比叡山へ取りあがり、洛中を脚の下に直下して、南方の官軍と牒し合わせ、東西よりこれを攻めば、将軍京都には一日も忍へ給はじと覚えしを、国司顕家卿、我が大功の義貞が忠にならん事をそねみて北国へひきあわず……」
 貴族だった顕家にとって武家の義貞の功績を大きくすることは避けたいとの心理が働いたことや、顕家の軍に義貞の仇敵である北条時行が加わっていたことも大きかったのだろう。

 顕家はいったん奈良に着いた後、京をうかがう。高師直の進言で桃井直信・直常兄弟が奈良へ派遣された。顕家は般若寺坂で迎え撃つが桃井勢の猛攻で1,2陣と破られ数万騎の兵はばらばらになってしまう。しかし京に帰った桃井兄弟への褒美はなかった。
 顕家と顕信兄弟は和泉の国境で再び敗軍の兵を集めて力を盛り返し八幡山に陣を構える。しかし桃井兄弟のことがあって出兵する足利勢はないため、高師直が一族をあげて打って出た。これを見て桃井兄弟や諸軍も参加し、ついに顕家は和泉の阿倍野で討ち死にした。
 吉野の官軍は大きく力を落とし、ふたたび越前の新田勢にかかる期待が強まった。
   


 
  太平記の袖舞台