太平記巻の20の1



 
義貞攻めあぐねるも援軍到着  

 越前黒丸城合戦の事

 建武5年正月、新田義貞は越前府中の合戦に打ち勝って国中の城70余カ所を一気に攻め落とし勢いが再び強大になった。この時比叡山三千の衆徒が旧交をもって内々に心を通じてきた。義貞が比叡山に登り、吉野の官軍と力を合わせれば京を攻撃することは簡単だったのに、「足利高経が黒丸入道のつくった要害の城に立て籠もったのを攻め落とさず、上洛するのは無念だ」と小さな事にこだわって大儀を二の次にしたのは無念だった。
 「足利右馬頭高経、なほ黒丸入道覚性が構へたるその用害に立て籠もりておはしけるを、責め落とさで上洛せん事は無念なるべしとて、詮なき小事に目を懸けて、大儀を次になされけるこそうたてけれ」
 こう太平記は義貞の動きを批判するが、高経をそのままにして上洛すればせっかくの越前の優位が崩れてしまう。後方が安定しなければ京の支配も難しい。しっかり越前を制覇してという戦略は間違っていないと思う。

 5月2日義貞は越前国府(現武生市)を出て波羅密(福井市原目町)、安居(福井市金屋町)、川合(福井市石盛町)、春近(春江町鷲塚町)、江守(福井市江守町)の五カ所へ五千余騎を差し向けて足羽の城を攻めさせる。この場合の足羽城は足羽地域の守り全体を指す表現のように読める。

 春近城があった見られる春江町鷲塚付近 安居城があったとみられる福井市金屋町付近
福井市舟橋町にある黒龍神社


 まず義貞の小舅の一条少将行実が五百騎で江守から押し寄せ黒竜明神(福井市舟橋町)の前で戦うが、利なく下がる。
 二番に船田長門守は五百騎で安居の渡より押し寄せた。兵が川の半ばを渡るとき細川出羽守が百五十騎で向こう岸へ急行し高い岸から散々に射たため馬、人とも溺れて渡河できず合戦にならなかった。
 三番に細屋左馬助千余騎で川合庄から押し寄せ、北の端の勝虎城を包囲し塀にとりつき堀に漬かって責めた。しかし鹿草兵庫助が二百騎で救援にきて背後から脇目も振らずに責めると、細谷は追い立てられ元の陣に戻った。
 「この三人の大将、みな天下の人傑、武略の名将たりしかども、あまりに敵を侮りて、おぎろに大早りなりしその故に、毎度の軍に負くるなり」
 確かに敵を侮って何の戦術もなく、ばらばらに攻めた結果だった。

 越後から新田一族進軍
 
 初戦では大きな成果は得られなかった義貞陣営に力強い味方がやってきた。新田の出身地の上野の隣国で新田一族の多い越後から大井田弾正、中条入道、鳥山左京亮ら二万余騎が援軍にやってきた。7月3日越後を出発、越中では守護の普門俊清が国境を越えて防ごうとしたが、兵が少なく魚津の松倉城にこもった。越後勢はこれを無視して加賀国に入った。富樫介が五百騎で安宅(現小松市)、篠原(現加賀市)で迎え撃とうとしたが、こちらも兵が少なく二百騎が討たれたところで那谷城(小松市)に引き籠もった。越後勢は越中、加賀の二度の合戦に勝って北国各地の敵にはおそるに足りないと思った。
 このまま越前に入るべきだったが、ここから京までは戦乱に疲れて兵糧がないだろうと考え、加賀で兵糧を蓄えることにした。今湊(現美川町)の宿に10日間逗留し、剣、白山以下各神社に討ち入り仏具神具を奪い取った。
 「この勢の悪行を見るに、罪一人に帰せば、今度の義貞朝臣自ら大功を立てん事、如何あらんずらんと、兆前に機を見る人はひそかにこれを怪しめり」
 太平記はこの越後勢の狼藉を大将の義貞の責任に帰すべきとし、義貞の行くへを暗示する。


 
  太平記の袖舞台