太平記巻の8

4月3日合戦の事 

 越前、加賀の武士も合戦に参加
 全国的に幕府方と後醍醐方の激しい戦いが巻き起こり、京でも北条方の六波羅探題を目指して赤松勢や比叡山の僧兵などが攻め上がる。六波羅の幕府方で活躍する越前、加賀の武士たちの姿が描かれる。

 六波羅勢との戦いでいったん敗れた山門の僧兵が鳥羽竹田方面から再び侵入し、西七条からは赤松入道円心らが京を囲むように攻める。
 南北の六波羅も準備を整え六条河原に勢揃い、この中に越前、加賀の武士たちの名前が出てくる。
  「富樫・林一族、嶋津・小早河両勢に国々の兵六千余騎相副えて、八条東寺辺へさしむけられる。厚東加賀守・加治源太左衛門尉・須田・高橋……に七千余騎を相副えて西の七条口へ向けられる」
 
 富樫は石川郡富樫郷の武士、林は石川郡拝師郡の武士。嶋津は承久の変で越前守護となった嶋津氏の一族と考えられる。
 赤松勢の勇壮な5人が仁王立ちし、六波羅勢を悩ませると、嶋津安芸の前司親子3人がこれを聞いて日ごろ鍛えた弓の腕を発揮する。
 「日ごろ聞き及びし西国の大力とはこれなりとおぼゆ。……我ら父子3人相近づいて進んづ退いつしばらく悩ましたらんに、などかこれを討たざらん。多年稽古の犬傘懸け、今の用に立たずは」と高らかに宣言。
 金棒を打ち振る相手に3人張り12束3伏の弓を固めて放つと頬先から射通し、さらに攻めかかる相手を巧みに馬を操って弓でかわす。西国の力自慢と、北国の乗馬と弓の名手との力と技の対決に外の武士たちは戦いを忘れて見とれていた、
 「嶋津元より物なれたるうへ、馬の上の達者、矢次はやき手ききなれば、少しもさわがず、田中が進んで掛かれば、相の鞭を打って、押しもぢりにはたち射る。……。西国名誉の打物上手と、北国無双の馬の上の達者と、追ひ返しかけちがへ、人交ぜもせず戦ひけるは、前代未聞の見物なり」
  
 千種頭中将忠顕合戦の事
  若狭の兵も加わる
  赤松勢の苦戦に後醍醐天皇は六条少将忠顕朝臣を頭中将とし山陽山陰の兵の対象として差し向ける。
 最初千騎だったのが20万7千騎に及び、この中に因幡、伯耆、丹波、若狭の勢も加わる。


 
  太平記の袖舞台