太平記巻の9
関東武士上洛の事

 足利高氏(尊氏)登場
 後醍醐天皇が船上山に上がったことを知った幕府は一族の名越尾張守を大将に外様の大名二十人に上洛を命じた。この中に足利高氏もいた。高氏は前回父の死後間もなく上洛させられ、今回も病み上がりだったことから北条の仕打ちを恨み、六波羅攻めを思い立つ。北条に気づかれないよう息子千寿丸と妻を鎌倉に残し、高時相手の起請文を書いて京へ向かった。吉良、渋川、畠山、今川、細川、高、上杉らが尊氏に従った武将の名前として出てくる。

名越尾張守打死の事
 
 足利(斯波)高経が初登場

 太平記北陸舞台の主人公の一人斯波高経が登場するのはこの章だ。太平記では高経は一貫して足利高経の名で出てくる。

 高氏が丹波の篠村に向かった後、と初めて足利高経が登場する。
 「越前国にも、足利尾張孫三郎高経の長男幸鶴丸、旗を挙げて義兵を起こすと聞こえしかば、南方、西国、北陸道、穏やかなる心もなし」
 既に高経と越前が結びついている。ここでは高氏に従っての兵でなく、独立した行動のようにも読みとれる。

高氏篠村八幡に御願書の事

 高氏は八幡神社に祈願し、大江山を越えて出陣。
 「相随ふ人々には、舎弟直義、続いて吉良省観(貞義)、子息上総三郎に続いて尾張孫三郎高経の名」
 ここでは高氏に従っている。となると高経は関東出陣の時の別働隊だったのか。

  一方六波羅方には越前嶋津氏の嶋津常陸介忠秀の名があり、対足利の軍に属する。
 合戦中には六波羅方で「利仁将軍より十七代の後胤、斎藤伊与房玄基」も登場、組み討ちで死ぬ。
 後に若狭守護となる大高二郎重成の名乗りの場面も出てくる。


 
  太平記の袖舞台