足利(斯波)高経

 (1305−1367)

 

 足利将軍の時代、越前の守護を務めることの多かった斯波氏は足利の一門で足利4代泰氏の子家氏の代で分かれた。家氏は尊氏の曽祖父、頼氏の弟となる。家氏が陸奥斯波郡に下って斯波氏を名乗ったという。同じ一門の細川、今川、吉良より血筋は近く、太平記では斯波でなく足利高経の名で出てくる。

 太平記では北条が倒れる前から、高経の勢力が越前で活動していたことが示唆され、後醍醐天皇の建武政権では、新田一族の堀口貞義に次いで高経が任じられる。尊氏と後醍醐・義貞との戦いでは北陸の兵を率いて戦い比叡山攻めなどにも一軍の将として活躍する。

 新田義貞が金ケ崎にこもると、高師泰と並んで包囲戦を戦う。杣山の瓜生保をいったん味方に引き入れるが、保が新田方に変わった後、高経の拠点だった府中を攻められ、新善光寺城を落とされた。

金ケ崎城は高泰師ら3万の大軍で囲まれ、1337年3月に陥落する。新田義貞は途中で抜け出し、瓜生勢の力も借りて、斯波高経を府中から足羽(現福井市)に追う。高経は黒丸城など「足羽7城」を頼りに防ぎ、攻略を焦った義貞は1338年閏7月、藤島城を攻めようとしたとき、くるまる城から出てきた斯波勢の遭遇し討ち死にする。

このとき高経は義貞から源氏の重宝、「鬼丸・鬼切」の名刀を得、尊氏から所望されたとき偽物を渡したとい話がある。高経にも源氏の一族という強い誇りがあったことを示す話だ。翌1339年3月、幕府は高経に若狭の守護職も与え、越前・若狭での権益を強める。能登の得江頼員らも加わって、攻勢をかけようとするが、新田義貞亡き後かえって越前の南朝方の勢いは強まる。7月脇屋義助、畑時能ら南軍は三国、大野、府中の3方から足羽を囲むように進撃し、各地の砦を次々と落とし、高経の本拠黒丸を囲む。高経はいったん城を捨て加賀に退却した。しかし南軍の勢いもここまでで能登の守護吉見頼隆が加賀から坂井郡に攻め入り、大野へは美濃からの援軍が現れ、府中へも攻勢をかけて畑時能を高栖城(現福井市高須町)で降参させ、脇屋義助も美濃から吉野へ去るなど1340年までにはほぼ北軍が制圧した。

将軍尊氏と弟の直義が対立した観応の擾乱では高経はほぼ直義方につく。1351年直義派の桃井直常が越中から近江へ攻め上がり、高経も京都を脱出して挙兵した直義のもとに参上する。直義派は打出浜(兵庫県宝塚市)の戦いで尊氏を破り、高師直らは上杉重能の養子の能憲によって殺される。尊氏と和睦しいったん幕府の主導権を握った直義だが、再び対立。直義は越前に逃れ、金ケ崎城に入る。直義は再度近江虎姫まで進出するが破れ、結局越前から鎌倉に移る。翌1352年、尊氏に攻められて直義は降伏、毒殺される。

その後も直義の養子、直冬が南朝に下ると高経も合力しいったん京を占拠する。しかし直冬は実父の尊氏に破れ、斯波高経も越前に戻る。これだけ尊氏に相対しながら、越前の守護はいったん嫡子の氏経に替わることはあっても実権は高経が握り続けた。

尊氏の晩年から2代将軍義詮の最初、若狭守護の細川清氏と対立する。細川清氏は義詮から重用され執事として幕府の実権をにぎるが、義詮の疑いを受けて若狭に追放され、さらに斯波氏頼によって若狭からも追われる。清氏はその後南朝に降伏し、楠木正儀らと京を制圧するという事件も起こす。

清氏の没落で義詮政権での高経の力は高まり、4男の義将が13歳で執事となる。義詮の要請によるもので、義将の兄の氏頼は執事の職は高家など足利家譜代の従者がつくべきで家名を落とすと反発し、出家したとされる。義将以来執事から次第に管領と呼ばれるようになった。以後高経は実質的に幕府を動かし、武家への税率を高めるなど幕府の強化策を打ち出した。反斯波派の反発を招き、1365年(貞治4年)佐々木道誉、赤松則祐らが義詮に讒言し、義詮も高経をかばわなかった。高経は将軍と幕府を見限り、三条高倉の屋敷に火を放って越前に帰った。近江勢を中心に高経追討の兵が送られたが、高経は南条の杣山城にこもって守り抜いた。1367年、高経は杣山城内で波乱の生涯を閉じた。最後まで足利氏と同族の誇りは失われなかった。


太平記の人々目次
太平記の袖舞台