【2001年】
 藤原京跡で最古の「調」の木簡
 「高志調」越国からか
 (2月22日)
 
奈良県橿原市の藤原京跡で、7世紀中ごろに書かれた木簡が見つかった。「高志調」の3文字が書かれ、同県立橿原考古学研究所は「古代の物納税の『調』を示す最も古い木簡としている。高志は古代の北陸地方全体を範囲とした越国を示す可能性が高いと見られる。
 木簡は藤原京が造営される以前の7世紀中ごろのものと見られる。「高志」は、「越国」全体を指すかまたは「高志」地方を指すと考えられる。「先代旧事本紀」の中の「国造本紀」の中にヤマト政権の地方組織として若狭、高志、三国、角鹿の4つの国造(くにのみやつこ)が置かれたとされる。高志は新潟県の古志郡とする説もあるが、当時の新潟はまだヤマトから見ると辺境の地であり、国造本紀の記述の順番からいっても、福井県内と考えるのが自然。
 7世紀の藤原京関係の「調」に関する木簡は、若狭からのものは大量に見つかっているが、越前からはこれまでなかった。木簡が書かれたのは斉明天皇の時代と見られ、このとき東北日本海の蝦夷を討とうと阿倍比羅夫の遠征が行われ、越へ兵や食糧、船などの調達が求められた。それに関するものかもしれない。

【2000・5】
敦賀に弥生時代の「のろし跡」 近江と連絡か


 敦賀市舞崎の通称舞崎山(標高95メートル)の山頂で古墳の発掘調査をしていた敦賀市教委は5月25日、古墳の下から約2000年前の弥生時代中期末の住居跡が見つかったと発表した。福井県内では最も古いの高地性集落の遺跡。通信のため「のろし」を上げた跡も見つかった。
 市教委は高い場所にあることから「日本海から近江、大和につながる通信網の発信源だった可能性が高い」と日本海の見張り所的性格を持っていた集落と説明している。同じようなのろし跡は近江でも見つかっているという。ただこの当時、大和(畿内)にまで通信する必要があった権力のつながりがあったかどうかは疑問だ。

 
北庄城の新たな石垣発見
  福井城と北庄城は全く別


 福井市中央1丁目の柴田公園で福井城跡の発掘調査を進めていた市教委は5月29日、柴田勝家が築いた北庄城の石垣を公園南端で新たに確認したと発表した。排水施設も新たに見つかり、これまで公園東側にあったと考えられていた本丸が逆の西側に位置していた可能性もあるという。
 この石垣の場所は、福井城の絵図に描かれている場所とは別。北庄城は信長の越前一向一揆攻めの後1575年、柴田勝家が築き、ルイスフロイスがその天守閣の偉容に感心したという。1583年賤ヶ岳の合戦後、秀吉の攻撃を受けて落城した。後結城秀康が福井城を築くが、他の地で行われたような元の城を利用するというやり方はとられなかったと見られる。福井市は「前の城を全く利用しないというのは全国でも珍しく、結城秀康の権力がしのばれる」と話しているという。

  
北庄城とも関連の高山右近の船着き場

 大阪府高槻市城内町の「高槻城三ノ丸跡」で、キリシタン大名、高山右近(1552-1615)時代の大規模な堀と、船着き場の「舟入り」跡が6月末見つかった。
 舟入り跡の北西側では、2年前に右近時代のキリシタン墓地が確認されている。右近や、その父の高山飛騨守が建てた「天主教会堂」があったと推定されている。
 同時代の宣教師ルイス・フロイスの「日本史」には天主教会堂は「(城内の)いっそう便利にして広き場所を選んで」建てられたという記述がある。
 堀は、飛び出た部分の底がしだいに浅くなっていることなどからここが船着き場と考えられる。徳川時代に埋め立てられ、新しい高槻城が築かれた。
 高山右近の父飛騨守は勝家のいた北庄にいたこともある。高槻城は淀川に近く、舟入りを使って京都や大坂と水運で結ばれていたとみられる。この場所は継体天皇陵の今城塚古墳とも近い。

 三角縁神獣鏡 連弧文銘帯鏡
 
  全国初 同時に出土 
       弥生から古墳に畿内関連の強い権力

 福井市岡保地区の花野谷古墳から、中国の前漢時代に作られ弥生時代の宗教的権威の象徴とされる「連弧文銘帯鏡」一面と、”卑弥呼の鏡”とも言われ古墳時代の大和政権の権威の波及を示す「三角縁神獣鏡」一面が同時に出土した。8月31日同市教委が発表した。弥生、古墳両時代の権威の象徴が同時に出土したのは全国で初めて。
 二つの鏡は古墳時代初期(四世紀前半)に築かれた花野谷一号墳の木棺に副葬されていた。この古墳は北陸では最も古い時期の円墳。
 専門家は、両鏡が同時に出土したことについて「弥生時代に中国製の鏡を入手できる豪族が福井にいて、後に畿内勢力と強く結び付いていった」と分析している。
 三角縁神獣鏡は模様によって五十種類以上のタイプに分かれ、今回見つかったタイプは奈良県黒塚古墳や福岡県石塚山古墳などの鏡に次いで全国五例目となる。また、連弧文銘帯鏡は宗教儀式に使う呪具(じゅぐ)とみられ、出土例のほとんどが九州に集中しおり、山陰から北陸にかけての日本海側で見つかったのは初めて。
 
国内最古の木製枕出土 
  
清水町甑谷在田遺跡 弥生期木棺墓から

 福井県丹生郡の清水町甑谷の甑谷在田遺跡で、弥生時代中期初頭(紀元前二〇〇年ごろ)の木棺墓から枕(まくら)とみられる丸太二本が見つかった。31日同町教委が発表した
。木の枕が弥生時代の遺跡から出土した例はなく、従来より約五百
年さかのぼる国内最古のものという。、木棺墓は一基で遺跡の南東側で見つかった。長
さ2・2メートル、幅0・6メートル、深さ40センチあり、木棺はすでに腐って跡が残っているだけだが、被葬者の頭の位置に直径10センチ、長さ40センチの丸太が二本並んでいた。丸太が副葬品として使われたとは考えられず枕と判断された。
 木の枕は、古墳時代前期(紀元三〇〇年ごろ)の福井県吉田郡の松岡町の乃木山
古墳と兵庫県権現山51号墳で見つかったものが最古とされていた。今回の出土はそれを約五百年さかのぼり、国内最古となる。
 専門家は当時の日本海側の死生観、埋葬観が読み取れる興味深い発見だとしている。

 本多富正の両親位牌武生の寺で発見
 府中領主、本多富正の父母の位はいが、武生市本町浄土真宗本願寺派・陽願寺で見つかった。本多家の菩提(ぼだい)寺、同市深草一丁目曹洞宗・龍泉寺の寺宝展で公開された。富正の父、重富は最初家康の長男、岡崎三郎信康に仕え、後に下総国(茨城県)の弟、本多作左衛門重次の家老として閉居。富正が府中入りした慶長六(一六〇一)年から府中で過ごした。94歳まで生きたという。一向宗の信徒だった関係で陽願寺に葬られた。母親は詳細は不明だが、府中入り前に下総国で没し 同寺に改葬された。

 2号墳から豪華、多量の副葬品
 三角縁神獣鏡と前漢鏡が同時に見つかった福井市岡保地区の花野谷1号墳に隣接する2号墳で今度は、18種類もの豪華で大量の副葬品が出土した。両墳墓は、肩を並べるように築造されているが、実際には百年以上もの年代差があり、副葬品の並べ方などにも共通性が認められ、同市教委では「葬送儀礼の伝統を受け継いだと見ている。
 2号墳の木棺内の副葬品は、12個の突起を主文様とした青銅製の乳文鏡(にゅうもんきょう)1枚、水晶やめのう製の勾玉のほか、管玉、小玉、竪ぐしなどの装飾品、武具の鉄剣や弓、鉄製のやじり、農具の鋤先や曲刃鎌、刀子、針とみられる鉄製品など。1万個を越す玉もあった。
 1号墳は前漢鏡など大陸的な遺物が含まれているのに対して2号墳は、国産とみられる遺物ばかり。勢力が衰えたのか、ヤマトの支配下にさらに組み込まれたのか。

【2000年10月】
朝倉氏菩提寺、幻の「心月寺」確認
住民が一乗谷山中で見つける 

 国の特別史跡に指定されている福井市西新町の朝倉氏遺跡の近くの一乗谷の山中から、戦国時代の五輪塔や僧侶の墓を示す卵塔(らんとう)が見つかり、戦国大名・朝倉氏の菩提(ぼだい)寺でこれまで場所が分からなかった幻の大寺院「心月寺」の跡地と見られている。
 遺構が確認されたのは、一乗谷を守った上城戸の外側にある一乗小の南西約200メートルの地点から谷奧へ300メートルほど登った山中。近くの住民が石製品が地面から顔を出しているのを偶然見つけた。見つけた人は最初五輪塔の頭の部分を物干し竿の大部分と思ったという。一乗小一帯には「心月寺」という地名が残っていることや。禅僧の墓である卵塔があった山中は「田治平(たぢびら卵塔」と呼び名が伝わることから心月寺跡と県立朝倉氏資料館によって断定された。付近に建物の礎石らしい石や参道跡も見つかっている。墓の主は朝倉氏の越前の覇権を確立した貞景かその父で応仁の乱で活躍した孝景と見られている
心月寺は、朝倉孝景が15世紀後半、先祖をしのんで隠居宅の傍らに創建、朝倉家の菩提寺となった。当時は300人近い僧がいたとされる大寺院で三代貞景の代には700人のもを率いる奥州の大名が寄宿したとの伝説も残る。朝倉氏滅亡後1603年、結城秀康の越前入りに伴い福井市内に移った。
 【2000・12】
   石川県山中町九谷町のの、同県山中町九谷町の国指定史跡「九谷磁器窯跡」近くの江戸時代前期(一六○○年代半ば)の地層で、色絵磁器の絵付窯跡とみられる遺構が見つかった。絵付の窯跡とみられ、佐賀県有田地方産とされた「古九谷」が九谷でも一貫生産されていた可能性を示す発見という
 。石川県埋蔵文化財センターが12月18日発表した。
 色絵磁器片は見つかっていないが、構造などから絵付窯跡の可能性が高いという。九谷磁器窯跡から川を挟んで約200メートルしか離れていないた屋敷跡で、磁器を焼いたあとこの屋敷跡で絵を焼き付けたと考えられ、色絵磁器が九谷で一貫生産された可能性を示すという。
 九谷焼の起源である「古九谷」をめぐっては、伊万里焼の産地である佐賀県有田地方で製造されたとする説が古来有力で、論争が奨められていたが石川県内の専門家は九谷でも、磁器と色絵を一貫して生産していたことが確実としている。