府中攻防戦 源氏一門日野川の戦い

 足利高経六千騎で府中へ
 金ケ崎を中心にした敦賀での戦いが終わった後、越前の南北朝の対決舞台は国府のあった府中に移った。
 南条町の杣山に新田義貞、脇屋義助が潜んでいたことを知った足利方は、足利高経、弟の伊与守家兼を大将軍として北陸道7カ国の兵6000余騎を添えて越前に送った。もともと越前に勢力を張っていた高経は府中の新善光寺城に入り新田方を攻めようとする。
 大塩などで新田方抵抗
 しかし府中は新田方の越前の中核である瓜生勢の杣山に近く、しかも現在の武生市瓜生町が瓜生氏の本拠の一つだったことなど根強い抵抗勢力がいた。特に府中から南条、今庄、そして近江へと向かう道の首根っこを押さえるような大塩は大塩八幡宮(現武生市国兼町)が瓜生一族と関係が深く、その奥の大塩には新田方の山城があったとされる。ここで「日々夜々いくさの絶え間もなし」と書かれているように、交通の拠点をめぐって何度も戦いがあったのだろう。ただ大塩の谷間は深く、真っ正面からの本格的な戦いにはならなかったのだろう。
 
 越前・加賀で南朝蜂起
 高経が攻めあぐんでいるうちに越前、加賀の地侍は次々と南朝方に就いていく。加賀の大聖寺城が落ち、常に足利方だった平泉寺が半分に分かれ、鯖江と福井の境の三峯山に立て籠もる。三峯山は後醍醐天皇も頼りにした河島維頼の本拠地にも近く、この付近の地侍や地頭は家を捨てて、府中にやってきた。さらに坂井郡にも新田勢の拠点ができ、府中にこもった高経は兵糧がつきることを恐れて六千騎を半分の三千騎にした。

 脇屋義助が鯖江へ偵察
 冬の間は小競り合いだけだったが、寒さが緩んで最初に新田側が動いた。三峯にいた義貞の弟脇屋義助が「国府へ敵が往来する道を遮って戦うべき。どこの要害の地によるのがいいか」と百四,五十騎で鯖江の宿に出てきた。鯖江の宿は現在のJR鯖江駅付近とみられる。三峯から鯖江は近い。兵糧の確保に苦しんでいる高経への足羽(福井)からの援軍ルートを断とうという作戦だ。ただこの脇屋義助の行動は高経方に漏れていた。
 
 情報漏れ 鹿草が迎撃
 敵の名将が小勢で城を出てきたというので高経方は鹿草彦太郎を大将に五百騎が府中の城を出て鯖江に押し寄せた。太平記は三方から進んで脇屋を囲んだという。脇屋は囲みから逃げることはできないと戦うことを決意する。
 「後ろに高木の松原を当て、左右に瓜生縄手を前に当て、矢種を惜しまず散々に射る」と太平記は書く。高木は武生市高木町、瓜生は武生市瓜生町。1995年に世界体操選手権が行われたサンドーム福井に近い鯖江市と武生市の境近くの地だ。縄手、いわゆるあぜ道だからそう広い道ではなかったのだろう。射立てられて馬が浮き足だったところに脇屋は一気に攻め込んだ。五百騎と数では圧倒的に勝っていた鹿草はかなわないと見て鯖江の宿の後ろの浅瀬を渡って向かい岸に引いた。この川は現在の日野川だ。
 
 脇屋火をかけ難を知らせる
 脇屋に従っていた結城上野守、河野七郎、瓜生次郎らが川を渡って追おうとしたのを脇屋は「小勢が大勢に勝ったのは一時のこと。水辺で不利になれば敵が調子づく」とし高木、瓜生、真柄、北村の集落の20カ所に火をかけて合戦が行われていることを味方に知らせようとした。真柄、北村は武生市の東側の現在の北陸自動車道武生インター付近。合戦の地から三キロ以上離れている。かなり広い範囲に火をかけたことがわかる。「狼煙天を焦がせり」と書かれている。
 
 各地の新田方結集
 各地の宮方はこの煙を見て合戦を知りかけつけてくる。
 宇都宮泰藤、天野雅貞が鯖浪(南条町鯖並)から三百騎で、一条実朝が飽和(南条町阿久和)から三百騎でやってきた。瓜生重と弟照は五百騎で妙法寺(武生市妙法寺町の山城)から、平泉寺の僧兵三百騎は大塩(武生市大塩)の城から、河島維頼は三百騎で三峯城から下ってきた。総大将新田義貞も千騎で杣山から出陣する府中近くの南軍が総結集した。
 足利(斯波)高経も各地の南軍の動きを見て日野川のそばにいる味方を討たすなと弟家兼とともに三千騎で出陣、国分寺の北に出てくる。「両陣相隔つ事十余町、中に一つの川を隔てたり」。わずかな距離で向き合った。
 雪解けで水かさが増し、流れも急で互いに渡河地点を探していたところ、先に右岸の鯖江側にいた新田方が仕掛けた。船田経政の若党の葛新左衛門が「この川は増水すると新しい州ができて土地を知らないものが渡ろうとすると失敗する。私が浅瀬を探しましょう」と川に入る。この言葉からすると葛は地元の武士で船田に従ったのだろうか。葛が馬を泳がせて渡るのを見て集まっていた新田方の三千騎が一斉に入り、一気に向こう岸に渡った。
 


武生市瓜生付近

日野川沿いの家久町付近

武生側から対岸を見る


 日野川左岸で源氏決戦
 源氏一門の新田義貞と足利(斯波)高経の棟梁同士の初の本格的な合戦となった。高経は足利尊氏の曾祖父頼氏の兄家氏から出た家で本来は足利本流という意識があったはずだ。太平記はこれに敬意を表してか一貫して足利高経または尾張右馬頭高経と記す。「寄せたる敵も三千余騎、防ぐ兵も三千余騎、大将は何れも伝代武略の名を惜しむ源家一氏の棟梁なり。しかも馬の懸け場はよし、敵御方入り乱れ、追つ返しつ、半時ばかりぞ闘ひたる」。敵味方入り乱れての戦いは一時間たっても決着つかない。
 この合戦の場はどこだろうか。「馬の懸け場はよし」と書かれているようにかなり広い場所だったはずだ。日野川の近くで広い場所といえば現在信越化学の工場や清掃、浄化センターのある家久町、北府一、二丁目付近ではないだろうか。この付近にJR北陸線の橋も架かっている。 

新善光寺城の跡に立つ正覚寺 帆山付近の川原

 背後から府中攻められ退却
 なかなか決着がつきそうもないところへ、新田方の新たな援軍がやってきた。三峯から出た河島勢が府中の東を迂回して帆山川原から、大塩の平泉寺の衆徒と合わさって府中に火をかけた。高経の兵二千は拠点の新善光寺城にいれまいと引き返した。新善光寺城は武生市京町の正覚寺がその跡。善光寺通りという通り名が残り、寺内には土塁の跡もある。しかし新田方の追撃は激しく、また高経方が築いた関や逆茂木が邪魔になって城へ戻ることもできず、高経は大虫、織田を回って足羽の城へ逃れた。弟の家兼は若狭を指して落ちていった。
 この戦い後越前国内の30の高経方の城が落ちるなど一気に新田の勢いが強まった。

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