加賀市と県境で戦い
               太平記の舞台 北陸編


 大聖寺、現在の加賀市では太平記の前半から何度も戦いが行われる。その戦いの中心舞台となるのが大聖寺城だ。といっても戦国時代末期に山口玄蕃が討ち死にし、江戸時代には代々前田家の支藩が置かれた錦城とは少し位置が違っていたようだ。
 

 名越時兼を加賀越前の連合軍が下

 建武と年号が変わった後、後醍醐の親政が始まったが、朝廷内にも後醍醐に不満を持つ勢力はいる。
 1335年権大納言西園寺公宗の西園寺家は以前から北条と親しく、北条高時の弟で生き残っていた四郎恵性を京の館にかくまっていた。恵性は時興とを変え、北条再興の計画を立てる。
 時興は畿内近国の兵を集め、高時の2男時行を鎌倉で立ち上がる。さらに越中守護だった名越時有の息子太郎時兼を北国の大将として越中、能登、加賀勢を集めるというもの。いわゆる中先代の乱だ。
 西園寺家に後醍醐天皇を招いて湯殿で殺すという陰謀は失敗したが、北条時行は一時鎌倉を奪う。
 北陸の名越時兼は越中で蜂起し3万騎を率いて京を目指す。しかし越前、加賀国境の大聖寺で敷地、上木、山岸らの国人が立ち上がり上洛を防ごうとした。加賀の侍たちは大聖寺城にこもり、名越の攻撃を防いでいるうちに、越前から瓜生、深町の武士たちが駆けつけ名護勢を挟み撃ちにして倒したとされる。
 敷地らは地元の地頭福田方の大聖寺の武士で、敷地は現在の中央公園のある加賀市敷地らを拠点としたと見られる。

大聖寺城の登り道 南北朝の城は大聖寺城よりやや西側という

 この3年後の1338年、今度は南北朝の戦いが繰り広げられる。越前では金ケ崎の落城後、いったん杣山に逼塞していた新田義貞が再び力を取り戻し、府中(武生市)の足利高経と四つに戦う。

足利方の津葉城を落とす

 これに呼応し、義貞の被官の畑時能の誘いに応じ敷地伊豆守、山岸新左衛門尉、上木平九郎らが立ち上がる。畑時能は越前と加賀の境の細呂木(金津町細呂木)に城を構え、敷地、山岸らとともに津葉五郎が八百で守る大聖寺城を攻める。数で勝る畑らが城を落とし、加賀全体を勢力圏に広げる。足利方だった津葉は加賀市津波倉町付近の武士との見方もある。津葉のこもった城は後の大聖寺城(錦城)とはやや西側の尾根で、後の城と区別するため津葉城とも呼ばれた。1995年加賀市教育委員会が大聖寺城の詳しい踏査調査を行ったが、津葉城の部分はまだ未調査のままで詳しい縄張りなどはわかっていない。

敷地伊豆守の拠点だった加賀市敷地付近 津葉の本拠地の可能性のある加賀市津波倉町。
敷地に隣接して畑町の地名。近くには山城跡も 畑らが拠点とした越前の細呂木

 津葉の本拠地の可能性のある加賀市津波倉町は国道8号線の小松市寄り。敷地は加賀市北東部の丘陵地帯にあり、その西側に畑町、山岸という地名が続く。畑町には畑時能がこもって戦ったという山城伝説も残っている。

 太平記の袖舞台トップ  太平記の地を訪ねて