太平記巻の18の3


 金ケ崎ついに落城
 援軍の望みの絶たれた金ケ崎では兵糧も尽き、一宮以下多くが自害、または討ち死にした。

 金崎城落つる事ならびに一宮御自害その外官軍切腹の事

 義貞、義助は杣山へ脱出
 金ケ崎城内では瓜生保つが負け兵も大勢討たれたと聞いて頼む方もなくなり子心細くなった。兵糧も日ごとに乏しくなり魚を釣り海藻をとってしのいでいたが、さらに事態が切迫し皇族の馬をはじめ各大将の秘蔵の名馬を毎日2匹ずつ刺し殺して朝夕の食に充てた。それでも援軍がなければ10日も持たない状況となり「義貞兄弟はひそかに城を出て杣山に入り味方を連れて寄せ手を追い払ってください」とみんなが勧め、義貞、脇屋義助、洞院実世が越前の武士の川嶋維頼を道案内に立てて7人で2月5日城を抜け出した。
 新田義貞は湊川の戦いでも最前線に断たず
 
 瓜生、宇都宮はたいそう喜び今一度金ケ崎へ寄せて前回の恥を雪ごうと思案をめぐらせた。しかし春風が吹き山道の雪も解えかければ諸国の軍勢がさらに加わって寄せ手は一万にもなった。対して義貞勢はわずか五百で気をもむばかりで20日以上すぎた。金ケ崎にはもう馬もなく食事を絶って10日にもなった。
 正面の兵が高師泰に「城中に50匹もいただろう馬も最近は1匹も見えない」と攻撃を提案した。諸大将も賛成し、3月6日大手と搦め手の2カ所から同時に切り立ったがけの下や塀の下にとりついた。城兵は防ごうと木戸付近まで出てきたものの刀や弓を使う力もなく櫓の上や塀の陰いて息をついているばかりだった。攻めては勢いついて乱くいや逆茂木をひきぬき塀を破って3重構造の2の木戸まで入ってきた。
城跡の中腹にある金ケ崎神社の本殿。 新田義顕や瓜生保らをまつった絹掛神社

 義顕、一宮らが自害
 由良、長浜の二人が新田義顕の前にきて「もうどうしようもない。皇太子を小舟に乗せてどこかの浦に落としほかの者は1カ所に集まって自害するしかない。それまで私たちが攻め口へいって防ぎます」と述べた。しかしあまりに疲れて足が立たず、二の木戸の脇で射殺された死人の股の肉を切り20余人の兵ととも一口づつ食べこれを力にして戦い時間を稼いだ。
 新田義顕は一宮尊良親王の前に出て「合戦はこれまで。我らは弓矢の家の者で名を惜しむので自害する。宮様は敵の中にでても命まではよもやとらないでしょう」と述べたが、一宮は「主上が都へ還幸するとき私を元首(頭)としておまえを股肱の臣とした。股肱なくして元首を保つことができようか」と一緒に自害するのでやり方を教えよと迫った。
 「主上都へ還幸なりし時、我を以て元首とし、汝を以て股肱の臣たらしむ。それ股肱なくして、元首を持つ事を得んや。されば吾命を白刃の上に縮めて、怨を黄泉の下に酬ひんと思ふなり。そもそも自害をば如何様にしたるが能き物ぞ」
 義顕も感涙にむせび刀を逆手に取り左の脇に突き立て右の小脇のあばら骨2,3枚かけてやぶりその刀を宮の前に置いた。一宮はその刀が血で滑るので袖に柄をしっかり巻いて胸元に突き立てた。頭太夫行房、里見時義、武田与一に加え地元の気比弥三郎氏治らが念仏を唱えて腹を切り、さらに三百人が続いた。
本丸跡と見られる月見御殿。少し広くなっている 激戦地の2の木戸。ここで天筒山からの兵を防いでいたが
ついに力尽きた
金ケ崎神社のそばに立つ金ケ崎城跡の碑 金ケ崎への登り口

 春宮を泳いで連れて蕪木へ
 気比氏治の息子気比大宮司太郎は力が優れ泳ぎも達者なので皇太子を舟に乗せ櫓も櫂もないため引き綱を腰に付けて泳いで三十町離れた蕪木に着いた。このまま杣山に連れて行くのはたやすいことだが、自分一人逃げて生き延びたのでは物笑いの種になると思い宮を卑しげな浦人に預けた。「この方日本の国王になる人だから杣山に連れて行ってほしい」と言い元の海上を泳ぎ渡って父の弥三郎が自害した上に自ら自分の首をかき落とし片手に提げながら死んだ。
 土岐阿波守、栗生左衛門、矢島七郎は「まだ総大将が生きているのだから生き残って役にたつべき」と遠浅の波をかきわけて半町いったところに岩に波が空けた大きな穴がありここに隠れて三日三晩をすごした。
 由良、長浜の二人はのどがかわけば傷からながれる血を飲み、力がなくなると前の死人の肉を食べて戦った。最後に敵の大将と差し違えて死のうと高師泰の本営に向かったが討ち取れてしまう。
 太平記によると最後まで城中に立て籠もったのは160人とする。このうち降参して助かったのが12人、岩の中に隠れて生き延びたのが4人、残りの151人は自害した。別の太平記元本では城中に立て籠もったのは八百人から八百七十人と伝えるが、これは戦って討ち死にした人数も数えての数字と考えられる。

 春宮還御の事
 夜が明けると蕪木から皇太子が来たことの知らせがあり、嶋津駿河守忠治(今川忠治)を迎えに送った。前夜金ケ崎で討ち死にと自害の八百五十一人の首実検をしたところ新田義貞、義助兄弟の首がなかった。足利高経が皇太子に二人の死骸ないことをたずねると皇太子は子供にも関わらず、杣山にいることを教えれば敵が押し寄せるだろうと思い「義貞、義助の二人は暮れに自害し火葬した」というと納得してそれいじょう追求しなかった。杣山はそのうち降参するだろうと放っておいた。

 一宮の事
 新田義顕とその一族三人、ほか主立ったもの七人の首を持たせ皇太子を張輿に乗せて京へ送った、義顕の首は大路を引き回して獄門にかけられた。一宮のくびは禅林寺の夢窓国司方に送られ葬送された。運命にもてあそばれながらも深く愛し合っていた一宮の夫人の御息所の嘆きは大きかった。49日が過ぎないうちに亡くなってしまった。

   


 
  太平記の袖舞台