瓜生保

(?−1337)
 現南条町にあった杣山城主。
 金ケ崎にこもった新田義貞は、瓜生を味方と頼るが、足利高経の示した後醍醐帝の偽綸旨に従って足利方に付き、金ケ崎攻めに参加する。しかし弟3人は脇屋義助の子、義治をたてて挙兵すると、新田方に付き、いったん足利の兵を湯尾(現今庄町湯尾)でうち破る。しかし金ケ崎へ救援に向かうとき、金ケ崎の手前で弟義鑑房とともに今川頼貞の兵に討たれ死ぬ。敦賀市樫曲に瓜生保戦死の地が比定され、市の文化財に指定されている。(太平記巻17、18)
 太平記では巻13に中先代の乱に呼応した越中の名越時兼が挙兵し京に向かった時、加賀(加賀市)で迎え撃った越前・加賀勢の中に瓜生の名が出てくる。
 瓜生は源融を祖とする嵯峨源氏の流れを組み、代々1字の名が付けられた。









太平記の人々目次
太平記の袖舞台