不思議の町 吉崎
      今も生きる二つの顔

 
 大谷派吉崎別院             本願寺派吉崎別院

わずか4年、蓮如の道場
東西本願寺の別院が隣接
300年以上続く御影道中
争論後、東西共有の地
肉付き面も2つ
御影道中も分裂
 越前と加賀が隣接
   もう一つの信仰 鹿島の杜

 戦国時代に蓮如が道場
 不思議な町だ。ここには2つの顔がある。それも数種類の対比があり、それが絡み合って歴史の息吹を今に伝えている。福井県坂井郡金津町吉崎。時代とは少し違った空気が流れている。
 かつてここに浄土真宗中興の祖、蓮如が北陸布教の拠点とした吉崎道場があった。道場はなくなったが蓮如を慕う心は連綿と続いている。道場の跡地は御山として保存され、門徒たちの信仰を集めている。
 親鸞の子孫である蓮如は1415年に京都の東山大谷に生まれ、43歳で浄土真宗の第8代となる。1471年、57歳で越前吉崎に赴き坊舎を建てた。加賀、越前で門徒を増やすが、加賀の守護、富樫政親や高田派などとの軋轢(あつれき)が強まり、1475年、わずか4年で吉崎を去った。

蓮如忌でにぎわう吉崎     御山への上り道


 東と西の別院が隣接
 東と西。これが一番目のキーワードだ。蓮如の没後、その後本願寺は隆盛を極めるが、信長との石山合戦に敗れ、江戸時代に入って徳川家康によって本願寺派(西本願寺)と大谷派(東本願寺)の二つに分けられた。その東と西が吉崎では隣り合わせにある。
 国道305号線沿いの駐車場に面して本願寺派の吉崎別院がある。そのやや左奥に大谷派の吉崎別院。浄土真宗を代表する二つ本山の別院がこんなに間近に建つのはおそらく日本中でここだけだろう。別院の間に階段のある細い路地があり、そこを登っていくと聖地の御山に到達する。
 福井県内の東西本願寺の門徒数はほぼ拮抗しているが隣の石川は圧倒的に東が強い。吉崎は福井県内でありながら、地形的にみても石川側に開いているなど、吉崎自体でも東本願寺の勢いが強そうに見える。


 蓮如忌の主役、大谷派別院      ややひっそりの本願寺派別院


 300年以上続く御影道中
 毎年4月23日から吉崎で蓮如忌が営まれる。5月2日までの期間中大勢の門徒たちでにぎわう。といっても華やかな雰囲気に包まれるのは専ら東別院で、西別院は幕が張られているものの、ややひっそりしている。というのは吉崎の蓮如忌の中核となるのが京都から下向する蓮如の像で、大谷派だけで行われているからだ。
 1611年に東本願寺の12世教如が蓮如忌の法要を続けてきた吉崎の直参門徒に蓮如の真影を吉崎惣道場に与えた。この像は1673年に東本願寺に預けられ、翌1674年から蓮如の苦労をしのぼうと像の下向と10日間の法要が始まった。これが蓮如忌の道中の始まりという。
 毎年4月23日到着
 日程は毎年決まっている。蓮如の御影は輿(こし)に乗せられ、4月17日に京都の東本願寺を出発。大勢の門徒に引かれながら、堅田など琵琶湖の沿岸の蓮如ゆかりの地を通り敦賀から難所の木ノ芽峠を上がり、武生、福井などをへて23日に吉崎に到着する。5月1日まで吉崎で連日法要が営まれ、年配者を中心に大勢の人たちがやってくる。普段は時折参拝者がいるだけでひっそりと静まり返ることも多いこの地が、期間中は熱気を帯びる。露店も出て祭りの雰囲気だが、数珠の店が出たりするのがほかとは違っている。

蓮如の御影を乗せた輿を引く道中   立ち寄り先では御影が下ろされる

2001年5月2日 京への帰り道


  御山は東西共有の地
 江戸時代はじめに蓮如忌が始まってから、東本願寺が毎年御山で仮小屋を立てて法要していため、福井藩の許可を得て御堂を建てようとした。しかし西本願寺が幕府に工事差し止めを求める訴えを行い、東西本願寺の争論となった。幕府の裁定は「吉崎に西方の門徒がいるのに寺再建の幕府への届けを怠ったのは東方の落ち度」「西方の門徒が大勢いるにもかかわらず、蓮如の法事を70年来怠ったのは西片の落ち度」と東西それぞれに落ち度があるとし、「旧跡は要害の地だから今後手入れをしてはいけない」と裁定。いったん幕府の直轄地となり、石垣や土塁などは打ち壊されてしまった。明治以後東西の共有地となった。
 坊舎の跡は残っていないが、公園化され、1934年に高村光雲が作った蓮如上人像が中央に建っている。1975年に国の史跡に指定された。2年前の500回忌にはここで東西合同の法要が営まれた。


高村光雲作の蓮如像       御山は広場になっている


伝説 肉付き面も2つ
 吉崎には、肉付き面の伝説が残る。蓮如の話を聞きに何度も吉崎に通う嫁を姑(しゅうとめ)が般若の面をかぶって威かそうとしたところ面が取れなくなってしまったという話だ。吉崎近くには嫁威という集落名さえ残っている。姑(しゅうとめ)が悔い改めて面が取れたというものだが、されに不思議なことに肉が付いた面が東西両派の寺にそれぞれ残り観光名所になっている。大谷派の願慶寺は御山への登り口のすぐそばと好位置にあり、立ち寄る客も多い。本願寺派の吉崎寺は国道を隔てた湖側にあり御山との一体感に欠ける分訪れる人も少ないように見受けられる。

左上から大谷派の願慶寺、本願寺派の吉崎寺、嫁威し人形


 御影道中が分裂
 昨年、300年以上も続いている御影道中が分裂。「二つの顔」に新たな側面が加わった。これまで運ばれていた御影について真宗大谷派と確執のある前門主の大谷家が所有権を主張。吉崎別院との司法上の争いとなり、最終的に最高裁で大谷家の所有権が確立した。このため吉崎別院では別院内の別の御影を使って道中を行うこととした。一方大谷家も従来の御影で立ち寄りを希望する門徒があれば応ずるとの立場をとり、独自の下向を始めた。蓮如忌の23日に吉崎の御山で法要を行った後、約8キロ離れた金津町の中心部の永宮寺で期間中公開された。この永宮寺はもともと、江戸時代から吉崎道場の講坊主として蓮如忌に深く関わってきた寺だった。
 大谷家のもともとの御影が立ち寄る所は、別院の道中からは外され、新たな立ち寄り場所が数箇所選ばれている。

蓮如忌中の吉崎別院           蓮如忌中は露店も立つ


 越前と加賀が隣り合わせ
  「越前吉崎」と「加賀吉崎」。もう一つの顔だ。吉崎御坊のある福井県金津町吉崎は約110世帯、300人。この町並みを北に向かって歩くといつの間にか石川県に入っている。加賀市吉崎。45世帯、80人。国道にかかった両県の看板以外に二つの地区を隔てるものはない。隣との家の間の小さな路地が県境になっている。
 日本で最も最後の国である加賀ができ、越前との国境が確立したのは平安初期の823年。このころはまだ人家も少なかっただろうが、蓮如が御坊を設けて急速に発展した。加賀側にも宿坊が立ち並んだという。さらに吉崎や加賀の塩屋は北前舟の拠点として江戸時代発展し、遊女屋もあり、加賀吉崎は化粧ケ市とも呼ばれた。
 加賀藩の支藩である大聖寺藩は吉崎に番所を置き、越前への金銭などの流出を防ごうとした。さらに財政難になった大聖寺藩は文化年間に吉崎への参拝を禁止した。
 現在金津町吉崎の人たちは小学校は地元の吉崎小学校に通うが、中学は通学の便利さから加賀市の錦城中学に通う。高校も自然と石川へ行く事が多いという。

福井県と石川県の県境          この路地が県境


 もう一つの信仰の地 鹿島の杜
 吉崎の北潟湖対岸に鹿島の杜がある。周囲600メートル、高さ30メートルもともとは湖と大聖寺川とにはさまれた小ぶりな島だったのが今は加賀の吉崎町と陸続きになっている。タブノキやヤブツバキなど暖地性の照葉樹の原生林に覆われ1938年に国の天然記念物に指定されている。鹿島神社の神域であるが、御山からも正面に見え、真宗門徒の信仰の対象ともなっている。


御山から見た鹿島の杜と北潟湖     温暖な植物が生育する鹿島


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