二つの連合軍が激突

浅井町を流れる姉川 川幅50メートル程度と思ったより小さい 河原の近くに立つ姉川古戦場の碑


 越前侵攻を目指した信長が、浅井長政が姻戚関係よりも朝倉との盟友関係を優先すると帰趨を鮮明にしたことで、敦賀から退いた2ヶ月後両勢力の本格的な戦いが滋賀県の中央部で起こった。姉川の戦いだ両軍合わせて4万人を越える戦国の大会戦だった。

 攻めあぐねる小谷
 敦賀から退いた後、信長は湖西の永原に佐久間信盛を置くなど国境を固め、浅井長政も岐阜との境を閉じて、織田勢の京と岐阜との往復を困難にさせた。信長公記には「浅井備前 越前衆を呼び越し、たけくらべ、かりやす両所に要害を構へ」と書かれているように、朝倉勢が岐阜との境まで兵を派遣していた。しかし国境の坂田郡で勢力があった堀氏が信長についたことから均衡が崩れ、信長は一気に浅井の小谷城を攻めようとした。1570(元亀元)年6月国境の長比(たけくらべ)城に泊まった後、6月21日近江に入り、小谷城の麓の虎御前山に陣を置いた。信長は城下を焼くなど挑発したが、長政は険しい小谷にこもって出ようとはしなかった。

 朝倉・浅井軍姉川へ進撃
 朝倉は景健を大将に援軍を送ってきた。一気に小谷を落とすことの困難さを悟った信長は虎御前から現在の浅井町の中央を流れる姉川の南側までいったん退き、浅井の前線基地の横山城を囲み、朝倉・浅井勢を誘い出そうとした。朝倉・浅井勢も大依山まで陣を進めた。さらに夜半姉川まで進んだ。信長勢は大依山から下りるのを見て、陣を引くのかと思っていたら、間近な姉川北側まで進んでいるのを見てびっくりした。

姉川の北には小谷城のある山がそびえる。城を背にした浅井勢の志気は高かった。 三田村の古戦場にある姉川合戦の碑。ここでは浅井勢を8000人としている

 朝倉対徳川、浅井対織田
 徳川家康の援軍が到着し、全体の人数は織田勢は23000人、徳川の5000を合わせて28000人、朝倉が13000人、浅井が5000人の計18000人など諸説あるが、織田方が上回っていたの間違いない。
 攻勢をとったのは朝倉・浅井連合軍。朝倉は下流の三田村から、浅井はそこから1キロ近く上流の野村から川を渡ろうとした。浅井勢には織田の本隊、朝倉勢には徳川と美濃3人衆があたることになった。
 午前6時ごろまず下流の朝倉勢と徳川勢との間で戦いが始まった。朝倉が川を突破しようとするのを、酒井忠次、小笠原長忠らが必死で防ぎ、いったん徳川が川を渡り朝倉本陣に迫ると、今度は朝倉の逆襲するという一進一退の展開。寡兵の徳川が下流から迂回して朝倉の右翼を奇襲すると朝倉陣が乱れ、ついに壊滅し真柄十郎左右衛門直孝、十郎父子や黒坂備中守ら朝倉勢の勇者が討ち取られた。 
 一方上流の野村では全く逆の展開。兵の少ない浅井勢の志気が高く、磯野員昌らが川を渡って織田の陣を破り、本陣に迫ろうとした。しかし横山城の監視役だった氏家直元らが朝倉の左翼を付き、さらに朝倉の敗走で下流にいた美濃3人衆の稲葉良通らが右翼から攻めたため、囲まれるのを嫌った浅井勢が退いた。
 織田・徳川連合軍は大依山、虎御前を通って小谷近くまで進んだが、被害も大きかった上、小谷攻めが困難なことら兵を引き、浅井の前線基地の横山城を降参させて岐阜に戻った。

血原の伝承が描かれている 野村の橋のたもとにある古戦場の碑

 血原の伝承も
 姉川の古戦場を訪れるとこの三田村と野村の2カ所に碑が建っている。どちらも現在の川幅は狭く、歩いて簡単に渡れそうに見える。特に下流の野村付近には橋が架かっていて車も多い。三田村には川を真っ赤に染めたという「血原の決戦」の伝承も残っている。
 負けた朝倉・浅井軍の死者は朝山日乗の手紙や、山科言継日記など同時代資料をもとに5000とも9000ともされているが実際ははっきりしない。この3ヶ月後の9月には朝倉・浅井軍が兵を挙げ、信長を危機に陥れているから、壊滅的な打撃を受けたのでないことは間違いない。信長公記の「千数百」という数字の方が案外近いかもしれない。姉川古戦場の碑では戦死者を朝倉・浅井を1700、織田・徳川を800としている。

 戦略では織田の完勝
 ただこの合戦で信長は勝ったと宣伝し、敦賀での敗戦を塗色することができたし、北近江を支配できるようになり、京都の通路を完全に確保するという戦略的意味合いは非常に大きな戦いだった。