金ケ崎城跡 2
 信長の朝倉攻めで再度表舞台に
  新田軍の落城の234年後再びここを舞台に大きな戦いが繰り広げられた。
 将軍15代将軍足利義昭からの上洛命令を朝倉義景が無視したことから織田信長は1569(元亀元)年越前を急襲した。朝倉氏にとって金ケ崎は越前の守りの要だった。義貞の時代より背後の天筒山の施設を強化し、連城として守ろうとした。
 信長は4月25日に敦賀に入し、金ケ崎からわずか500メートルしか離れていないふもとの妙顕寺(同市元町)に本陣を置いた。

背後の天筒山を要塞化
 

左が金ケ崎、奥の山が天筒山

金ケ崎の上から見た敦賀市街地
 中池見湿地から攻め上がる
 まず信長が目指したのが標高170メートルの天筒山城だった。山城には1500人が守りを固めている。山の裏手の沼地で攻めてこれないだろうと油断していた。この裏手は現在中池見湿地と呼ばれ、大阪ガスのLNG基地計画が進められている。しかしここは国内でも貴重な動植物が生存し、さらに50万年前の生物の痕跡が残っている泥炭層が広がるなど、世界的にも貴重な湿地で、保全を求める声は強い。もちろん信長の時代も深い湿地だったろう。ここから丹羽長秀らが攻め上がった。
 金ケ崎城にいた守将、朝倉景恒は急ぎ天筒山に向かった。朝倉始末記によるとわずか50騎でひきつれ、織田勢を攻め、何度か追い払ったが天筒山の水源を奪われやむなく金ケ崎に戻ったという。やはりこの時も狭い山道のため、少人数でもかなりの戦いができた。
 結局わずか1日で天筒山城は陥落、千人以上が討ち死にした。片手をもがれた金ケ崎は包囲され、景恒は城を明け渡した。金ケ崎の二の木戸近くで焼けた米が出土しているが、この戦いでのものと見られている。緒戦に大勝した信長は木ノ芽峠を越えて一気に攻め入ろうとした。しかしそこに落とし穴があった。

 秀吉、しんがりで名を上げる

 妹、お市の嫁ぎ先の浅井長政が朝倉について兵を挙げた。朝倉攻めは北近江の浅井が味方に付くというのが大前提だった。
  これが崩れたことを知った信長は、敦賀での戦果などに目もくれず兵を引くことを即決した。この時最も困難とされる退却戦のしんがりを申し出たのがこのとき木下藤吉郎と名乗っていた秀吉だった。信長記などによると秀吉は奪ったばかりの金ケ崎に入り、木ノ芽峠から退いてくる織田軍を支援した。柴田勝家ら日ごろ仲が悪かった武将たちも秀吉の行動に感激し何人かずつ兵を金ケ崎に置いていったという。
 秀吉はこの金ケ崎に立てこもろうという気はなかっただろう。守りは強固でも包囲されてしまえば逃げ出せなくなってしまう。それに木ノ芽峠からの道からもやや離れている。外に陣をひいたのだろうと想像する。
 朝倉方は木の芽峠に進み、逃げる織田軍を激しく追撃した。先ぽうだった徳川家康は最後尾となり、秀吉と合同して朝倉に当たり、優勢な鉄砲の力でいったん追い返す。そのすきに、若越国境の国吉城を目指した。秀吉の名を上げた「金ケ崎の退き口の戦い」だった。
  この戦いでは朝倉義景の対応の遅れが目立った。もっと天筒、金ケ崎の守りを固め、早めに援軍を送れば、早々と陥落しなかったかもしれない。織田勢を引きつけていれば浅井との挟撃作戦で大きな痛手を与えることができたはずだった。
 

金ケ崎の前にはコンテナが山積み
周囲は無惨な開発、なお巨大計画

 いま金ケ崎の周囲の風景は無惨だ。西側には引き込み線路と貨物が並び、海側の突端にはタンク類並ぶ。東側は北陸電力の2機の巨大な石炭火力発電所が間近に迫る。そして今後海側には、LNGガス基地のための3万トンのタンカーバースが計画されている。もう合戦の最中に月見をした優雅さは史跡の外からはうかがえない。