九頭竜川の合戦
  永正の一向一揆
 戦国時代、越前を支配した朝倉氏にとって最も手強い敵は一向一揆だった。1506年(永正3年)のいわゆる「永正の一向一揆」は、存続を危うくさせる危機的状況だった。数で攻める一向一揆と、戦国を戦い抜いてきた朝倉氏の武将団の質との戦いだった。

管領細川政元の策略 
加賀から大侵攻   
朝倉の大将は教景
九頭竜川が最後の砦
中角で一騎打ち
高木、鳴鹿も一進一退
中ノ郷で教景が強襲
一揆勢総崩れ
朝倉の柱石 教景

 全国に永享の大一揆
   管領細川政元の策略
 【背景】
 足利10代将軍、足利義材が河内に出陣した時、管領細川政元が日野富子らの協力を得てクーデターを起こし、政元を廃し、堀越公方足利政知の子、義澄を11代将軍にした。
 いわゆる「明応の変」だ。このとき朝倉勢も上洛し、細川氏に協力した。いったんとらわれた義材は京を奪取し、畠山氏の領国越中に逃れ「越中公方」として近隣に命令を果たした。義材は再び上洛を目指し、越前に進んで一乗谷の外に寺に入って「越前公方」と呼ばれて1年間滞在した。朝倉の積極的な協力のないまま、延暦寺を頼って上洛しようとしたが細川を破れず、周防の大内氏の元へ向かった。
 その後細川家に内紛が起こり、足利義材は上洛の機をうかがう。政元は本願寺の実如と結んで畿内や北陸で一向一揆を起こさせ、動きが盛んになってきた反細川勢力をたたこうとした。ねらい通り能登、越中では一揆勢は反政元に向かった。
 
  加賀、越中から30万人
   親細川の朝倉もターゲット
 各地でわき起こった一揆は政元の狙いの枠内にとどまらず、強烈なエネルギーとなった。加賀に追い出されていた甲斐氏など反朝倉勢力が越前の本覚寺、超勝寺などの本願寺派の大寺と結びついて加賀に続いて越前の本願寺領国化を目指した。政元の企てて本来政元派の朝倉がピンチに立たされた。
  敦賀の教景を総大将に
 【侵攻】
 1506(永正3)年7月14日、まず大野郡で一揆が蜂起、ついで加賀から大軍が国境を越えて坂井郡に入ってきた。朝倉の当主貞景は武将を集めて、評定を開くがなかなかまとまらない。そこに敦賀から出陣した朝倉教景が、府中(武生)の寺が一揆に味方しているのを生け捕りにして一乗谷にやってきたのを喜び大将とした。まず興行寺や照厳寺など近くの寺を襲って拠点となるのを防いだ。

 九頭竜川が最後の防御拠点

 福井市舟橋付近の九頭竜川


 しかしによると一揆勢は10万を越す大軍で、朝倉は数千人。数ではかなわず、豊原(現丸岡町)などで合戦を戦略的に撤退を繰り返し、九頭竜川の南に退いた。越前最大の暴れ川とされた九頭竜川が最後の砦となった。ここをうち破られると一乗谷まで、小さな足羽川しか守るものはなく、一気に殲滅させられる恐れもあった。
 合戦は四カ所で
 【布陣】

 中角。京福の橋がかかる  高木。旧国道8号線
中ノ郷。県道(左)と北陸自動車道(右) 鳴鹿。鳴鹿の巨大堰堤


 九頭竜川で大軍が渡れるのは4カ所。北から鳴鹿(永平寺町)中ノ郷(福井市)高木(福井市)中角(福井市)に陣を敷き待ちかまえた。鳴鹿は、今国の巨大な堰堤が築かれている場所、中ノ郷は北陸自動車道の橋、高木はJRと旧国道8号線、中角は京福電鉄と県道の橋が架かっている場所で、川幅が狭くなり交通の要衝のままだ。
 鳴鹿は朝倉景職を大将に3800。高木は勝蓮花、堀江、武曽、細呂木ら九頭竜川北から退いてきた勢力2800が守った。中角には山崎長門守の嫡男小次郎を大将に3000が黒丸に陣取った。総大将の教景は一乗谷に近い中ノ郷を本陣とし3000が陣取った。高田派や3門徒派も朝倉方に加わり宗教戦争の様相もみせた。
 一騎打ち朝倉に軍配
 【合戦】
 戦いはまず中角で始まり、加賀能美郡と越前の一揆併せて57000が渡河しようとした。一揆方の河合藤八郎と山崎との一騎打ちなり山崎の勝ち。続いての一騎打ちも朝倉に軍配が上がり、大将が破れたことで川北に退いた。

 中角。朝倉方から対岸を見る  古戦場近くの首塚


 一進一退 にらみ合い

 高木の九頭竜川。奥はJRの橋 鳴鹿。今は堰堤のため水は少ない


 高木は江沼郡と能美郡の軍勢に越中の大坊、安養寺や瑞からの兵も加わり88000。ここでも一揆方から甲斐の法華院と名乗る法師武者が現れ「わが一族は多くがこの国で死んだ」と叫んで一騎打ちを求める。朝倉から福岡七郎兵衛が進み出て半時の戦いとなり法蓮院が敗れる。
 この付近は昔から川幅も狭く、柴田勝家が舟を並べて橋を架けた。江戸時代も防御のためいつでも取り払うことのできる舟橋が続いた。いまでも舟橋の地名が残る。
 鳴鹿口は河北郡の一揆勢を中心に超勝寺の坊主を大将に55000。しかし水が多く、ともに渡れずにらみ合いが続いた。

 渡河して不意打ちを
  

朝倉方からみた中ノ郷の対岸 今中ノ郷付近は川幅も狭い


 中ノ郷は石川郡からは河合藤左衛門、州崎和泉入道鏡覚ら率いる一揆勢、能登一の宮の大坊主、さらに越前の一揆は和田本覚寺らの勢力が加わり総勢108000の大軍となった。
 朝倉教景は敵勢を見渡して上田、前波らの諸将に「敵は思いの外の大勢。この勢いで川を越えてきたら小勢の味方では勝てない。こちらから渡河して不意打ちしたい」と持ち掛けるが将から異議がでてまとまらない。そのとき一乗谷から貞景の使い、小泉四郎右衛門が「敵は雲霞のごとき大勢と聞いた。こちらから河を渡って攻めたてよ」と述べた。教景はこれを聞いて「良将の謀が一致した」と自賛し押し出した。
 「騎馬武者は川上を渡り水流を防げ、徒は下手に手に手を取り組の前後左右を示し合わせて渡れ。流れるものには弓を差し出し掴ませろ。水の逆巻くところには大石があるので近づくな。岸近くでは一面くつわを並べ、魚鱗を作って駆け入れ」と指示した。
 一揆勢総崩れ 加賀へ
 【勝敗】
 朝倉勢が一気に河を渡ると一揆勢は勢いに押されて後退し、ここを教景の「駆け散らせ」との命で兵は我先にと敵陣を突破した、特に貞景の使者の小泉四郎右衛門が先陣に加わったことから手柄を一乗谷に伝えてもらおうと、各武将が張り切り、さらに勢いが増した。中ノ郷から川を渡ったところは現在、福井県立大や福井医大のキャンパスが並ぶ学園地帯で、かつてここに大勢の一揆勢の討ち死にしたことをしのぶものはない。
 中ノ郷が敗れたとの情報がほかの戦場にも伝わり、一揆勢は完全に浮き足立った。大半が川に追いつめられて討ち死にし、朝倉始末記は「敵勢寄せ来る時は30万と聞こえしが、賀州に逃げ帰るものわずかに10万を切っていた」と書いている。中角の合戦場の近くには、数年前に地元の人がつくった一揆衆をとむらう石碑も建立されている。朝倉兵の質と志気が優り、一揆勢は烏合の衆になってしまった。
 教景、79歳まで戦い抜く
 合戦後教景は、国主貞景から勲功をねぎらわれ「武門の鑑」と賞賛された。勢いづいた朝倉方は蓮如の建てた吉崎の道場をはじめ、和田本覚寺、藤島超勝寺、宇坂本向寺など越前内の本願寺の寺を壊し、僧侶や門徒を追放した。
 今回の合戦の主役、朝倉教景、初代国主英林孝景の息子で五代義景まで各国主に使え、79歳まで朝倉の柱石として戦場を駆けめぐった。後に宗適と号し「犬畜生といわれようと武者は戦いに勝つことこそ第一である」という言葉を残すなど武者の中の武者だった。

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