太平記巻の17の3


 頼みの瓜生保の心替わり
17巻後半では金ケ崎城をめぐる激しい攻防戦が展開される。頼みとした越前勢の援軍もなく苦しい戦いの中、つかの間の平安の日も訪れる。
 
 瓜生判官心替わりの事
 金ケ崎に入った翌日の10月14日、脇屋義助と新田義顕は3000騎で敦賀を出発。味方と頼む瓜生保のいる杣山に向かう。瓜生は源融を祖とする嵯峨源氏の末で一文字の名が源氏の特徴という。瓜生保、弟の重、照の3兄弟が鯖並(現南条町鯖並)の宿で酒肴を用意して待ち受けた。保つらは義助らの軍勢に兵糧を贈り、杯を交わした。義助は引き出物として鎧を渡し、瓜生保は新田勢が薄着であることを痛々しく思い小袖を送った。
 しかしこの親密な関係はすぐ一変する。
 足利高経からの密使が後醍醐帝から出したという義貞一族追討の綸旨を届ける。瓜生保は思慮深い方ではないので偽綸旨とは少しも思わず、すぐに心替りして杣山城に登って堅く木戸を閉ざした。
 「このところに足利尾張守の方よりひそかに使者を遣わし、前帝よりなされたりとて、義貞が一類追罰すべき由の綸旨を送られける。瓜生判官これを見て、元来心に遠慮すくなき者なりければ、将軍より謀りに申しなされたる綸旨とは思ひも寄らずして……」

  瓜生保の本拠地だった杣山。


 義鑑房義治を蔵(かく)す事
 瓜生保の弟の義鑑房という禅僧が、鯖並の宿にきて保が心変わりしたことを義助、義顕に告げる。その上で保が真相を知ったら必ず味方するから子を預かって時が来たら金ケ崎城への援軍を挙げたいという。
 これに対して義助は「坂本を発つとき帝が『尊氏に強いられて仕方なしに義貞追討の綸旨をだすかもしれない。しかし朝敵の汚名を被らないよう、皇太子に位を譲って政を任せた』とおっしゃり、三種の神器を東宮に渡したのだから、思慮深い人は信じなかっただろう」という。義助は義鑑房を信じ、寵愛していた13歳の息子の義治を義鑑房に預ける。
 「三種の神器を東宮に渡し進らせし上は、たとえ先帝の綸旨とて、尊氏申しなすとても、思慮あらん人は用ひるに足らぬ所なりと思ふぜし。然れども、判官この是非に迷はるう上は、重ねて子細を尽くすに及ばず」
 夜が明けて義助は金ケ崎に帰り、義顕は越後に向かうことにしたが瓜生の心変わりを聞き3500騎はわずか250騎になってしまう。やむえず2人とも金ケ崎へ戻ることにした。
 近くの今庄九郎入道浄慶が落人を打つため野武士を集め、柵や逆茂木を構えて待ちかまえていた。義助は「坂本に味方としていた今庄久経の一族だろうから旧功を忘れないだろう」と由良越前守光氏を使者に送る。今庄入道は久経の子で「親子別々の身となり高経に味方しているから戦わずにこの場を通すことはできない。供のうち名のある人を差し出してくれれば首を取って合戦の証にしたい」と述べる。
 しかし義助は困り果て義顕が「私の命に兵士を替えることができない」とし、光氏はもう一度交渉にでかける。しかし今庄入道の心は解けず光氏が馬から飛び降り自らの首を差し出そうとする。入道もさすがに感じ入って逆茂木を解いて一行を通した。

 十六騎の勢金崎に入ること
 今庄入道浄慶との交渉が難航するのをみて金ケ崎に行くのは難しいと考えた味方の兵が次第に減り、二百騎が十六騎にまで減ってしまった。今庄から敦賀に入って深山寺(現敦賀市深山寺=木の芽峠の麓)付近で金ケ崎の様子を木こりに聞くと2,3万の兵が取り囲まれ攻められているという。「東山道を経て越後に向かう」か「ここで腹を切る」などの意見が出たが、栗生左衛門が「越後までいくのは難しいし、ここで腹を切るのも軽はずみだ。明け方に杣山から援軍がきたと叫んで敵の中に入り、敵があわてて交代したら城に入る。だめだら義貞公の前で討ち死にしましょう」と延べ全員が賛成した。
 山の中に大勢がいるように鉢巻きなどで見せかけ、十六騎は夜明けとともに「瓜生、富樫、野尻、豊原、平泉寺、剣、白山の衆徒2万騎にて援軍にきた」とわめいて時の声をあげた。太刀を握れぬ者は杉板を太刀のように手に縛り付け、脇差しがないものは柏の木を金棒のように見せかけて大軍の中に割って入った。
 寄せて三万は「すわ杣山からの援軍」とあわてさわいだ。深山寺に立てた旗が嵐に翻って大軍のように見えた。
 攻めていた越前・若狭の兵は皇太子城中の勢800余人これに利を得て浜面を西へ大鳥居の前に打って出た。囲んでいた軍勢は二里、三里逃げてもまだ止まらなかった。
 「案の如く、深山寺に立て置きたる旗どもの、木々の嵐に翻ってければ、後攻の勢げにも大勢なりけりと心得て、攻め口ありける越前・若狭の勢ども楯を捨て弓矢を忘れてばっと引く。城中の八百余人、これに利を得て、十六騎を助けんとて浜面を西へ、大鳥居の前へ打ってぞ出でたりける」

16騎が突入の足場とした敦賀市深山寺。
近くには北陸トンネルの敦賀口もある。
金ケ崎(右手前の小さな森)から広がる敦賀湾。
このどこかで舟を浮かべた。

 敦賀湾でつかの間の平安

 白魚船に入る事
 10月20日は、つらい金ケ崎籠城戦につかの間の平穏が訪れた。城を囲んでいた敵が引き城中は大いに喜んだ。1雪が止み漁船に月が輝き緑の末が花を敷き詰めたように見えた。都にはない風情なので旅の心を慰めようと湾に船を浮かべた。皇太子と一宮は琵琶を、洞院実世は琴、義貞が横笛、義助が笙、越前の武士川島維頼は太鼓をつとめ蘇合の三帖、万寿楽の破を演奏した。
 水の中で魚が跳ね船に飛び込んできた。実世卿が周の武王の故事になぞらえて合戦に勝つめでたい兆候だとしてこの魚を調理し皇太子に捧げた。遊女の歌に一同感動し涙を流した。


 
  太平記の袖舞台