太平記巻の17の4

 本格的な金ケ崎攻め始まる
 
 金崎の城攻める事
 わずか16騎に出し抜かれて寄せ手が四方に退散したと京都に伝わり尊氏が大いに怒り、大勢を送った。越前守護の足利高経は北陸道の五千騎を率いて海沿いの蕪木(河野村)から向かった。仁木頼章は丹波・美作の勢千騎を率いて塩津から、今川駿河守は但馬・若狭の七百騎を率いて小浜から、荒川三河守は丹後の八百を率いて疋田から、細川源蔵人は四国の勢二万騎を率いて東近江から、高越後守師泰は三河・遠江の六千騎を率いて愛発の中山から、土岐頼遠は美濃・尾張の勢を率いて越前から、佐々木道誉は江州の勢を率いて木の芽峠から、小笠原信濃守は信濃の五千騎を率いて新道から、そして佐々木塩冶判官高貞は出雲・伯耆の三千騎を率いて兵船五百艘にのって海から向かった。文字通り金ケ崎は六万騎で隙間もなく各方面から囲まれてしまった。
 「その勢都合六万余騎、山には役所を作りならべ、海には舟筏を組んで、城の四方を囲みぬる事、隙間もさらになかりけり」

 金ケ崎城は三方を海に囲まれて岩は滑りやすく、東南にある天筒山は城より少し高く城中を見下ろすことはできるが峰が絶えて矢も届かない。城は小勢だが新田一族がそろい、寄せては大軍で足利一門がそろったので両家の国争いはこの城の戦いに決するとそれぞれ油断せず気力をみなぎらせた。寄せては矢に当たって傷ついたり石に打たれて骨を折ったりする者日ごとに千人、二千人となっていったが城の逆茂木一つもとれなかった。

 手前左が金ケ崎。奥の山が天筒山 天筒山から見下ろした金ケ崎。
天筒山からは尾根伝いに道が続く。


 側面からの攻撃失敗
  小笠原信濃守が屈強の兵八百人を選りすぐって、東の山の麓から東南の尾根を斜めに楯をかざして上がった。城中もここが攻められやすい場所とみて三百人が二の城戸を開いて打ってでた。両軍太刀戦となり守る側はここを引けば攻め込まれてしまうと一歩も引かず、攻め側も言う甲斐なく引けば味方に笑われると命を捨てて攻めた。守り手は小勢で疲れが出てきたところに新田方の栗生左衛門が三尺の太刀に、樫の木を八角に削った長さ一丈二,三尺もの棒を打ち振って大勢の中に駆け込んだ。この棒を方手打ちに二、三十振り回すと寄せて四,五十人が犬のようにはいつくばった。これを見た後ろの勢が波打ち際にばらばらに群がっているところへ気比大宮司太郎、息子の大学助、矢島七郎、赤松法眼の四人が一気に打ち掛かると小笠原勢八百は引いた。
 
  「小笠原信濃守、屈強の兵八百人をすぐって東の山の麓より巽の角の尾をすぢかひにかつぎつれて挙がりたりける。誠にここや攻められけぬ所なりけん、城中の兵三百余人、二の関(きど)を開いて、同時に打ち出でたり」

金ケ崎の側面は切り立ったがけになっている。
 ここから上がるのはかなり難しそうだ。

 今川駿河守は「敵はこの場所が弱点だとみて城より打ち出てきたのだろう、陸地から攻めれば足場が悪く追い払われたのだから舟で攻めてみよう」と小舟百艘にのって小笠原が攻めた浜から上がった。岸の下の鹿垣を一重破り、出塀に寄りつこうとしたところ城中から二百人が出て打って出ると五百人はまっさかしまに落とされてしまい、我先に舟に乗り込んだ。
 中村六郎という武士が痛手を負って乗り遅れ、舟を呼んだがあれやあれやというばかりでだれも助けようとしなかった。播磨の国の野中貞国という武士が舟を戻そうとしたがだれも耳を貸そうとしない。野中は怒って逆櫓をたてて自ら舟を押し戻し遠浅から一人おりて中村に近づいた。城の兵はこれをみて重要な人物だから引き返してきたのだろうから首を取ろうと12、3人が駆け寄ってきた。しかし野中は少しもさわがず長刀で一人を切り、その首を先につらぬいて中村を肩にかけて舟に乗った。
 今、金ケ崎の麓にはJRの港への引き込み線が通るなど陸続きとなっているが、当時はまだ海に近かったのだろう。
 この後は寄せては攻めあぐね矢戦だけが続いた。

 「今川駿河守この日の合戦を見て、推し量るに、『ここがいかさま攻められぬべき所なればぞ、城よりここを先途と打つて出でては戦ふらん。陸地より寄りぬれば足立悪くてたやすく敵に払はつれれ。舟より押し寄せて一攻めてみよ』


 
  太平記の袖舞台