太平記巻の18の1


 瓜生保、義貞方で挙兵

 後醍醐天皇が吉野に逃れ、再び反尊氏の動きが強まる。越前でも瓜生保が義貞方となる。

 先帝芳野潜幸の事
後醍醐帝は花山院の古い宮に押し込められていた。そこに刑部大輔景繁が匂当内侍を通じて奏聞し「金ケ崎で寄せてが戦うごとに敗れ、加賀国の剣・白山の衆徒らが味方になって富樫介がこもっている那谷寺を攻め落とし金ケ崎を支援しようとしている」との情報を伝えた。
 新月の日、後醍醐は3種の神器を持たせ土塀から女房姿になって抜け出した。12月21日だった。

 瓜生旗を挙ぐる事
 金ケ崎内の城兵は後醍醐の挙兵の情報はなかった。11月2日、櫛川(現敦賀市櫛川)の島崎から金ケ崎を目指して泳ぐ者がいた。亘理新左衛門という武士が芳野の帝からの綸旨を髪に縫いつけて泳いできた。寄せ手はこれまで隠してきたことを城中が知ったことを不安に思い、守り手は諸国に助け手が出てくるだろうと喜んだ。
 櫛川は大きな敦賀湾のちょうど対岸に当たる。有名な気比の松原のさらに南側で金ケ崎までは直線で2キロほどにもなる

 瓜生保は足利高経方に属して金ケ崎の攻め口にいる。しかし弟の重、照、義鑑房の3人は金ケ崎に向かわず杣山にいて、義鑑房が隠していた脇屋義助の子、義治を大将にして義兵を挙げようと計画を練っていた。
 保は弟たちが軽率に謀反すれば、私が知らないはずはないと金ケ崎に打たれてしまうだろう」と思い、兄弟が一つになってこそなんとかなるはずと思い、味方になるものはいないだろうか人の話に聞き耳を立てていた。そこに宇都宮将監と天野大輔が新田と足利を比べながら、足利を滅ぼすのは新田だろう」と語り合っていた。保はこの人々も反足利の心を持っているのだなと思い酒を送って近づき、挙兵を思い立ったことを話すと二人とも賛成した。
 しかし高越後守師泰が陣中から抜け出す者を防ごうと出入り口に兵を置き師泰の書き判がなければ通行させなかった。そこで保は判の文章を偽造して宇都宮、天野の軍勢とともに深山寺の関を難なく通った。
 保らが杣山に来ると3人の弟は喜び脇屋義治を大将に11月8日新田の旗を挙げる。10月に坂本から逃げ下ってきた兵が集まってまもなく千騎となる。その半分を鯖並と湯尾の峠に関を設けて北国への道をふさぎ、昔の源平合戦で使われた燧城の東南の山の水も木も十分で険しい峰に本丸を構え籠城戦に備えて兵糧を運んだ。
 「鯖並の宿、湯尾手向に関据えて北国の道をふさぎ、昔の火打が城のたつみに当たる山の水木足りて険しく峙ちたる峰を攻の城に拵えて……」
 
 高師泰は「早く退治しないと剣、白山の衆徒らも加わって大事になる」と能登、加賀、越中の三国の六千騎を杣山に向かわせた。これを聞いた瓜生保は敵に陣を構えさせまいと新道、今庄、桑原、宅良、三尾の河内の4,5里間の家をことごとく焼き、湯尾の宿だけをわざと残した。
 11月23日寄せ手は深い雪の中寒じきもつけず8里の山道を1日で越え湯尾についた。杣山まではまだ50町あり間に大きな河もあり日が暮れて歩き疲れたので翌日攻めようとわずかに残った家に入って火を焚き前後もわからぬほど眠りこけた。
瓜生保が籠城戦に備えた燧城への登り道
しかし結局使われることはなかった
瓜生の計略で足利軍が夜討ちをかけられた湯尾。
JRの駅や北陸自動車道インターがある。


 瓜生は計画通り敵を谷に引き込めたので、これで大丈夫と思い野武士三千を後ろの山に足軽七百を左右へ回して三方から時の声を挙げた。寝ぼけた敵があわてふためいたところに宇都宮氏に従っていた紀氏と清原氏の兵が家々に火をかけた。敵は太刀や弓もとらずに駆け出し深い雪に足をとられて三百人が生け捕られ打たれた者は数がしれなかた。
 湯尾は現在北陸自動車道の今庄インターがあり、JRの湯尾駅もあるなど集落が当時のにぎわいを示す。


 
  太平記の袖舞台