太平記巻の20の2

 
義貞決定的勝利を逃す
 
総攻撃を中止し派兵

勅筆を義貞に下さるる事 

 越後勢は越前河合に着き義貞の勢いはさらに強大になった。足羽の城を取りつぶすことは片手の中にあるようなものと人々は思った。高経の義を守る心を奪うのは難しいが小さな平城に三百余騎で立て籠もり敵三万余騎を四方に受けているので敵は高経をあざけり、味方は最後を予感しながら悲しみを口にできなかった。

黒丸城跡の碑。ここが高経の立て籠もった
黒丸城とは断定されていない
碑は戦後の圃場整備でやや移転している


 義貞は21日に黒丸の城を総攻撃することにし、堀や溝を埋めるための草三万をものの北国から近々上洛してくるというので堪え忍んでいる。もし出発が遅れれば官軍の没落は間違いない。早くその合戦を中断して京の合戦に専念せよ」との直筆の勅書を下した。
 義貞は源平の臣で大功があってもお直筆の勅書を下されたことはなく、当家の後の代までの名誉になる。この命令を軽んじればいつ戦うときがあるのかと足羽の合戦を中止して京へ出発することにした。
 
 もし尊氏ならたとえ後醍醐の命であろうとも、まず越前の制圧を最優先にしただろう。たとえ一時京で勝っても、越前で再び高経の勢いが増せば、根拠地を失ってしまう。直筆に舞い上がってしまい、戦略の優先順位を見失ったことが義貞の限界だった。

 
 義貞牒状を山門に送る事
 児島高徳が義貞に対し、「先年の京都合戦の時、官軍が破れて比叡山を去ったのは合戦の勝敗でなく、北国を敵にふさがれて兵糧が断たれたから。たとえ山上に陣を構えても前のようになるのは必定。越前・加賀の味方の城には軍勢を残しておき兵糧を運ばせ、大将1,2人に六,七千騎を添えて山門に陣を構え京を日夜攻めるのが確実なやり方だ。そうすれば八幡の官軍に力を付け京都の賊軍を滅ぼすことができる。ただ小勢で山門に登ったのでは衆徒の中には背くものができるかもしれないまず叡山に牒状(書状)を送って心を探るべき」と述べた。
 叡山の大衆も以前後醍醐天皇が臨幸したとき忠孝を果たして所領を得たのが京に戻ってしまうと所領も元に戻ってしまいもう一度後醍醐の御代にと願っていたところの牒状だったので全山喜び賛同の返牒を送った。

 義貞は喜び早速上洛しようと思ったが北国をうち捨てていけば高経がその後に立って北陸路を塞ぐだろうと考え、二手に分かれて京を攻めることにした。義貞は三千余騎を順えて越前にとどまり、脇屋義助が二万余騎を率いて越前の国府を立ち敦賀に着いた。

 援軍遅れ八幡山は落城
 八幡宮炎上の事
 尊氏はこれを聞いて「八幡山を攻め落とさないときに義助が山門と結びついて上洛すればゆゆしき事態。急ぎ八幡の合戦を中断して京都に返せ」と高師直に命じた。師直はえり抜きの間者を送って八幡山の神殿に火を放った。北畠勢は何とか師直の攻撃は防いだが兵糧を焼かれてしまい頼みの新田勢はなかなか到着せず、持ちこたえられず河内国に撤退してしまった。
 「この時もし八幡の城に今四,五日こらへ、北国の勢逗留もなく上りたりしかば、京都はただ一戦の中に利を失ひて、将軍また九州へ落ちらるべかりしを、聖運いまだ時到らざりけるにや、官軍の相図相違して、敦賀・八幡の両陣とも引き帰しける薄運のほどこそ顕れたれ」
 太平記は八幡と義貞の両陣の提携のなさを嘆く。


 
  太平記の袖舞台