太平記巻の20の3


 高経の足羽7城守り堅し
   新田義貞畦道で死ぬ
  
 7つの城を連携
 高経城郭を構へる事
 八幡との連携に手違いがあったからには義貞は北国の敵を一つ一つつぶしてその上で南方の味方と示しあわせて京の合戦を優位にしようと考えた。河合の庄へ進んでまず足羽城を攻めようと計画した。
 拠点を府中から九頭竜川の北川に大きく移した。
 これを聞いた高経は「味方がわずか三百騎に足らないのに三万余騎に囲まれたら千に一つも勝つことはできない。敵はすでに方々の道を塞いだので逃げ道はない。ただ討ち死にと心を決めて城にこもるより外に道はない」と言うと黒丸入道は「それしかない。ただ合戦の道はただ謀が大事」とし、深田に水を入れ馬の足が立たぬようにし、道に落とし穴をつくり橋をはずして人馬の道をさえぎり、その中に七つの城をこしらえて互いに力を合わせてて敵の後ろに回れるように構えた。

足羽7城の一つ波羅密多城とされる福井市の原目山 足羽7城の勝虎城は福井市高木町付近とされるが
場所ははっきりとわからない
平泉寺勢がこもった藤島城は福井市の本願寺派超勝寺に
比定されている。
 当時の土塁跡なども境内に残っている。
 戦国時代は超勝寺は越前一向一揆の中心だった。


 平泉寺衆徒調伏の法の事
 足羽の地は藤島庄に隣接し城の半分は藤島庄にある。このため平泉寺の衆徒の中に「藤島庄は長年叡山と相争ってしる地だ。もし藤島庄を平泉寺に付ければ若い僧を城々に籠めて軍忠をつくし、宿老は先勝祈願をする」と申し入れた。一度高経を裏切って義貞方についた平泉寺がまた高経に寝返った。高経は藤島庄にさらに恩賞を重ねることを約束し、平泉寺は五百人の僧が三カ所の城に籠もった。宿老は怨敵調伏の法を行った。

 義貞朝臣妖夢の事
 調伏から七日目義貞は不思議な夢を見た。足羽庄と思われる川のほとりに義貞と高経が陣を張る。戦いに及ばず数日がたった時、義貞は身の丈三十丈の大蛇になって地に伏した。高経はこれを見て楯を捨てて数十里も逃げた。この夢を近臣は吉兆としたが、斎藤七郎入道は三国志の故事を持ち出して凶夢とした。

 水練栗毛属強の事
 建武五年閏7月2日に足羽の城を攻撃せよとかねてから招集していたので国中の官軍が河合庄に集まった。雲霞のような軍勢だった。義貞は赤い錦の鎧、義助は紺地に錦の鎧を付けて上座に着き山名、里見、鳥井、一井、細屋、中条、大井田、桃井以下一族三十人。外様の宇都宮将監、禰津、風間、敷地、上木、山岸、瓜生、川嶋、太田、金子、江戸、伊自良、紀清らの名前。越前・加賀の武士も多い。義貞の晴れ姿だった。
 軍奉行の上木平九郎が人夫六千余人に楯や塀柱、埋め草などを持たせてやってきたので、義貞は水練という栗毛の大馬に乗ろうとしたら急に飛び跳ねて左右の舎人二人が胸を踏まれる大けがをした、さらに旗持ちが足羽川を渡ろうとしたら馬が川に伏してしまい旗は水につかってしまった。こんな凶兆があっても既に戦場に赴いているので引き上げるべきではないと思い戦いに向かったが、心に危うい思いを抱かない者はいなかった。

 足羽合戦義貞自害の事
 灯明寺(福井市灯明寺町にあった大寺)で兵を七手に分け7つの城を分断するように各城の前に陣をとった。
 「先陣の兵は城に向かって合戦し、後方の足軽は櫓をつくって向かい陣を築いて徐々に城を攻め落とせ」とじっくりといく作戦だったが、平泉寺の兵が立て籠もる藤島の城は動揺しすぐに落ちそうに見えたので数万の寄せ手は、向かい陣を築けという命令を無視して塀につき、堀に入って雄叫びを挙げながら攻めた。
 しかし守る衆徒も最初は敗色濃厚に見えたが、もう逃れるすべはないことを知って命を捨てて守りに入った。木戸の前の細橋を渡ってやぐらの下に潜り込もうとしたら衆徒は丸太を落として突き落とす。衆徒が橋を渡って打って出ると官軍は太刀先をそろえて切って落とす。こうして時がたち日が落ちようとしていた。
 義貞は灯明寺の前で負傷者を確認していたが、藤島の城の守り堅く、官軍がややもすれば追い立てられそうに見えたので戦いが容易ならないように見え、馬を乗り替え鎧を変えてわずか五十騎を従えて道を探し田を渡って藤島の城に向かった。
 ちょうどその時高経方の黒丸城から藤島城の寄せ手を追い払おうと細川出羽守と鹿草彦太郎を大将に三百騎を二手に分けて田の横を通っているあぜ道を通ってきたところ義貞とばったり行き当たった。細川出羽守の兵は徒歩で楯を持った射手が多かったので深田に降りて前に楯を並べ矢先をそろえて射た。義貞方には射手は一人もおらず楯の一枚もないため、兵が義貞の前に立ちふさがって的のように射られた。
 中野藤内左衛門が義貞に目配せして「大将は小物を相手に軽々しく戦うべきではない」と述べたのに対し、「士を失って一人生き延びるのでは誰に合わせる顔があるだろうか」と独り敵の中に駆け込もうとし駿馬に鞭を入れた。この馬は俊足で一,二丈の堀は軽く越えるのだが、五本の矢を射られて弱ってしまい、小さな溝もほえられず屏風が倒れるように岸の下に倒れた。
 義貞は左の足が馬の下になり、起きあがろうとしたところを矢が膝頭に当たった。義貞はもうこれまでと思い、腰の刀を抜き自ら腹をかききって畦の影に倒れた。
 そこへ足利高経の兵の氏家光範の中間が畦を伝って走り寄り首と太刀、刀をとって主の元へ走った。義貞に同行していた結城上野守、中野藤内左衛門、金持太郎左衛門の三人は義貞の死骸の前に跪いて腹を切って死んだ。このほかの40人あまりも堀や溝の中に射落とされ敵を一人も倒すこともできず犬死にした。
 小雨交じりの夕霧のため義貞が討ち死にしたことをほかの味方は知らない。離れた場所にいた郎党が主君の馬に乗り替えて河合庄を目指して引き上げるのを大将義貞だろうと推測してそれぞれに逃げていった。
 氏家光範は高経の前に出て相当身分のある武者を討ち取ったことを告げ、首を差し出すと、高経は義貞に似ているとし「左の眉の上に矢傷があるはず」と土を落とし洗わせる。果たして眉の上に傷があった。身につけていた二振りの刀は「鬼切」という文字が刻まれていた、この二振りは源氏重代の重宝で義貞の方に伝わったものでさらに後醍醐帝の「朝敵征伐はもっぱら義貞の武功に期待し外に求めることはない」との御親筆が肌に付けた守り袋にあった。「義貞に間違いない。敵ながらも同じ源氏として武勇の誉れは誰にも負けないと思っていたのにこうなってしまった。武士として他人のこととは思えない」と高経は涙を流し、死骸を輿に乗せ時宗の僧を添えて往生院(現福井県坂井郡丸岡町の称念寺)に送り、首は氏家光範に持たせて京に上らせた。

義貞の戦死地とされる福井市の新田神社 義貞の菩提寺の丸岡町の称念寺


 脇屋義助は河合の石丸城に帰って義貞の行方を尋ねた。討たれたと聞き「すぐに黒丸城へ打ち寄せて大将の最後の場所で討ち死にしよう」と話したが、周りの兵は途方に暮れただ呆然としているだけで気力もなく、あまつさえ裏切って石丸城に火をかけようということも一夜のうちに三度あった。
 この様子をみて斎藤季基ら主だった20人がどこ途もなく逃げていった。さらに往生院で出家したり、縁を頼って黒丸城に降参する者が相次いだ。前日まで三千騎いた外様の軍勢は一夜のうちに五百騎に減ってしまいこれでは北国を支配下に置くことはできないと考え、三峯に川嶋維頼を、杣山には瓜生を。三国湊の城には畑時能を残し、義助父子は禰津、風間、江戸、宇都宮勢七百騎を率いて府中に帰った。


 
  太平記の袖舞台