若狭からは滋賀へ復権運動  
  1871年(明治4)7月廃藩置県で越前若狭を支配していた福井、丸岡、大野、勝山、郡上、西尾、鯖江、加知山、小浜の九藩と幕府直轄地や旗本領が合わさった本保県の10県ができました。本保県には白山麓十八カ村なども含まれていました。
  この年11月 明治政府は全国三府三百二県を三府七十二県を四分の一に減らすことにし坂井、吉田、足羽、大野、丹生の越前五郡と白山麓十八カ村を合わせ福井県が初めて誕生します。その一カ月後県庁所在地があった郡名をとり、足羽県に名称変更されました。
 一方、今立郡から南部の越前三郡と三方、遠敷、大飯の若狭三郡が集まり、敦賀県が生まれます。武生などが敦賀に入ったのは人口のバランスをとるためという説が有力で、福井(足羽 )県の人口35万人、石高54万石に対し、敦賀県は20万人、23万石で発足しました。
 1873(明治6)敦賀県が足羽県を併合し。白山麓十八カ村は石川県となり、ほぼ現在の県域で敦賀県一県時代になります。
 県庁を敦賀に置いたことから、木ノ芽峠をはさんで「嶺北」「嶺南」ということばが生まれ、「木の芽嶺」を越えるのは大変だと、県庁の移転を求める運動が嶺北から起こります。
 1876年(明治9)明治政府の方針が大きく変わり、嶺北7郡は石川県に、敦賀以西の嶺南の4郡は滋賀県に分けられ、現在の福井県はいったん地図上から姿を消してしまいます。
 しかし石川ではいやだという運動が実り1881年(明治14)福井県が独立が認められます。この時嶺北だけでは規模が小さいので、再び嶺南地方も一緒にされます。嶺南は、海のなかった滋賀から大事にされたいきさつもあり滋賀への復県運動が起こります。この時のしこりが長く福井県内に残りました。
1871年足羽県と敦賀県に分かれる 1873年 敦賀県が足羽県を併合 1876大石川でき、福井は消える

9世紀ようやく加賀が独立
明治初めに大石川県
福井県の誕生
石川県の誕生
富山県の誕生