結城秀康は松平本家を継いだ?
 秀康像 福井市性海寺像

 2代将軍徳川秀忠の兄でありながら、将軍を継げなかった越前初代藩主の結城秀康。生まれたときから父、家康に疎まれ、初めて対面したのも3才になってから。豊臣秀吉の人質となり、一時は豊臣の姓を名乗り、さらには関東の鎌倉幕府以来の名門、結城家に入るなど若いころから起伏の多い人生を送ってきた。
 家康は二男の秀康が、豊臣にいったん入ったことから後継者の資格がないと考えたのか、早々と三男の秀忠を将軍に決めてしまう。しかし関ヶ原の戦いで秀忠が途中の信州上田城で足止めを食い、肝心の決戦に遅れてしまうなど失態を見せ、一方で秀康は優柔不断な秀忠とは対称的に優れた統率力を見せるようになる。家康も秀康への評価をあらためにようになり、息子の中では秀忠は別格としても、もっとも優遇するようになる。越前68万石を与えられ、全国の大名とは別格の「制外の家」として遇される。

 
 松平系譜では秀忠より上
 そのもっとも最たるものが、家康本来の家である松平家の相続ではなかったのだろうか。江戸時代の徳川、松平諸家の系譜を見ているとそんな風に見えてくる。山川出版がことし出した「日本史要覧」に出てくる「松平家略図」では、家康の下にまず秀康があり、続いて秀忠がその下に続いている。
 秀康について研究者の間では、「徳川を名乗った」、「生涯結城姓を通した」など諸説があるが、積極的に「松平」を名乗ったと考えたい。
江戸時代、松平を名乗った大名は多数いたが、家康の血を引く子孫は秀康の系統以外は、三代将軍家光の異母弟保科正之の系統、六代将軍家宣の弟らの系譜があるだけ。ほとんどが秀康の系統で親藩の松平は占められている。また家康の11人の男子のうち後にまで子孫を残すのは秀康、秀忠、義直(尾張家)、頼宣(紀伊家)、頼房(水戸家)の5人だけでこの中で松平を名乗ったのは秀康だけだった。

 
秀康の子100万石を超える
 秀康の四人の男子のうち長男の忠直は越前藩を継ぐ。さらに忠直が大坂夏の陣で手柄を立てた後、二男の忠昌は直江津藩、三男の直正が松江藩、五男の直基が姫路藩、六男の直良の系統は明石藩となる。忠直自身は恩賞に不満があったと言われるが、秀康の系統は次々と大名家を起こし、「越前藩の繁栄」をうらやむ声が他の大名から出ていた。一時は秀康の子だけで百万石を軽く超えていた。
 忠直が乱行によって流された後も、越前は弟の忠昌が入り、忠直の子光長が直江津に入る。さらに直江津藩がお家騒動で取りつぶされた後も、秀康の嫡流である光長の後継は岡山の津山藩に入る。

  福井城は慶長の大普請

 これらを見ると秀康の系統が優遇されているのがよくわかる。
 2000年になって福井市教育委員会の調査で、秀康の前に越前を支配していた北庄城と秀康が築いた福井城(秀康の築城時はまだ北庄と呼ばれていた)とは全く別の城であることが明らかになってきた。この時代前の城を利用することが普通だったのに、秀康はそれをしなかった。というよりその必要がなかった。家康が縄張りし、他家の大名に築城を命じたため、全く新しい城づくりができたわけだ。福井城の石垣には島津の○に十の文字が入ったマークも見つかっている。慶長の大普請だった。

 御三家は秀康の死後に誕生

 徳川15代を支える一端となる御三家の最初である水戸藩ができるのは1609(慶長14)年、三番目の紀伊藩ができて御三家制度が確立するのは1619年。秀康が亡くなってから2年後、12年後の出来事だった。もし秀康が長生きしていた御三家はなかったかもしれないし、徳川の系譜も変わっていたかもしれない。今松平という名は、徳川家に対する家臣という見方をされがちだが、秀康が松平を継いだときにはもっと重い響きがあったのではなかろうか。
 そしてこの秀康に対する優遇が、子の忠直が一大名として生きていくには邪魔になったのかもしれない。

 徳川は本家 越前は嫡家