福井には越前の2代藩主だった松平忠直の恐ろしい暴君伝説が伝わっています。
 名門に生まれる
 忠直は祖父が徳川家康。父は将軍秀忠の兄で、本来なら徳川家を継ぐはずだった秀康という名門の家に生まれました。大坂夏の陣では徳川方で一番の戦功を上げながら褒美は茶道具ひとつだけ。本来なら「俺が将軍のはず」なのに思ったほどにには遇されません。積み重なった不満が乱行におよび、誰も止めることのできない地位がさらに乱行をエスカレートさせました。領民を次々と惨殺し、家臣の妻を奪い、笑わぬ愛人を喜ばせるためついには妊婦の腹を引き裂いてしまいます。
大阪の陣の忠直 父 松平秀康

 忠直を有名にしたのが文豪、菊池寛が一九一八(大正七)年に書いた「忠直卿行状記」です。大名ゆえの孤独で家臣が信じられなくなり、乱行がエスカレートしていくようになります。さらに海音寺潮五郎も「悪人列伝」の中で乱行を強調し、「日本史上類例のない暴悪な君主」とまで書いています。
 実際に三国港には妊婦の腹を裂いた時に使ったというまな板石だという石がありますし、福井には忠直を迷わせたという愛人一国の墓も残っています。
 実際の歴史でも忠直は将軍家光の時代に、福井藩主の地位を追われ、九州の大分に流されます。忠直の息子は越後の高田(現上越市)に国替えとなり、福井藩は弟が継ぎます。忠直に問題があったのは間違いありません。福井だけでなく幕府に残る記録でも、参勤交代を怠り、途中までで出かけて引き返したということは事実のようです。将軍の娘だった妻勝姫の付き人を殺したというのもかなり信憑性がありそうです。
  ただ最近の研究では忠直の乱行伝説の多くは中国の故事をもとに後世に作られたもので、一部問題があったとしても領地では名君だったという説も出ています。
 
 忠直後に北庄から福井に
 福井では忠直の主だった家臣は国替えで高田に移ってしまったため、忠直の素顔を伝える資料はあまり残っていません。忠直の家臣団に代わって高田からやってきた弟忠昌の家臣たちはむしろ忠直を否定しようとしたはずです。
 忠昌になって城の名も柴田勝家以来の「北庄」から福井に変えてしまいます。
 忠直の乱行のなぞは高田藩のあった新潟県上越市や、忠昌の後裔が継ぐ、岡山県の津山市など県外にヒントがありそうです。
 金沢も忠直をめぐる陰謀説やキリシタン説の舞台のひとつです。
 

 なぜ暴君伝説ができたのか
 忠直とはどんな人か

 鯖江では名君伝説
 大分では尊敬される
 大規模陰謀発覚か
 忠直はキリシタンか
 
活躍した大阪夏の陣
 割った「初花の茶入れ」 

 鯖江に伝わる本当の「葵三代」

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