全国雄藩の謀反発覚か
    当時の外国商人が記録

  忠直が大分に流されたのは、幕府に対する大掛かりな陰謀が発覚し、それを隠すために乱行話が大げさにひろがったという見方もあります。元福井県立図書館長だった故杉原丈夫氏が取り上げたものです。
 これは日本にいたイギリスやオランダの商館関係者の間に広まっていたうわさを元にしてての説です。
  
 
前田家も関与か
 平戸にあったイギリス商館のリチャード・コックスが東インド会社の総裁に送った手紙にはこう書かれています。「将軍さまに対し日本最大最強の諸侯八、 九人による大陰謀が発覚した。将軍の兄弟たち、最も近い血族も加わっている。反対派が非常に強いので将軍もあえて事を構えることをせず、事件を不問に付し彼らと和解すると思われている」。
また別の手紙でコックスは、「これまで聞いたこともない最大の陰謀について情報を た」と書き、加賀の前田利常、薩摩の島津家久、奥州の伊達政宗、山形の最上義俊、小倉の細川忠利、伊予の加藤嘉明、宇都宮の本多正純、家康の政治顧問だった南光坊天海とともに「現皇帝の最長兄の子息」である松平忠直の名前が陰謀の関係者としてでてきます。当時の日本の大大名の名前がずらりと並んでいます。
 このうち本多正純は「宇都宮の釣り天井事件」として有名な人で、実際に陰謀を企てたとして処分されています。最上氏も後に改易になっています。
 オランダ商館長のレナード・カンプスも本多正純の切腹について「彼およびほか数人の高位の人が皇帝の命を奪うことを共謀したからだ」と書いています。
 これらの説については、日本国内の公文書には残っていません。
 単なる外国人のうわさ話だったのかもしれません
  
 正純、将軍擁立図る?
 しかし事件の当事者の一人とされた熊本の細川家には忠利が1622年2月、国元に出した手紙では「忠直の国替えのうわさがある」とし七月には「越前家の処分とほかの大名の国替えがあり参勤交代の時期がきた大名に暇が出ない」と書いています。実 際には最上家が八月に改易、本多正純が十月に出羽に配流となり、忠直は翌年に豊後に流されるなど事前に正確な情報をつかんでいたことがうかがえます。
 さらに本多正純の処分については後に新井白石が「忠直を将軍に立てようとしたためだ」という聞き書きを残しているそうです。
 これらの情報を総合すると正純を中心に雄藩の間に徳川家の正統である忠直を将軍に据えようという動きがあったが、事前に察知され、失敗に終わった。しかし幕府も大規模な戦乱になることを恐れ、関係者の穏便な処分に済ませた…ということになる。
実際に忠直は5千石が支給され、嫡子は高田で二十万石をもらっているというのも処分としては甘いものです。幕府は事を構えることを避け、忠直らも妥協策に従ったのかもしれません。大分で幕府の監視が厳しかったというのもこの説なら納得できるように思えます。

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