忠直はキリシタン?

 「乱行」を名目にした処分の本当の理由は、忠直はキリシタンだったという説が以前からあります。キリスト教は徳川幕府の禁教なのに、将軍の近親がキリシタンでは 、幕府の威光がそこなわれる、そこで乱行伝説をつくり上げ、豊後まで配流したとするものです。
 この根拠となっているのがキリスト教の宣教師ベント・フェルナンデスが金沢に滞在中、1620年に「将軍のいとこ」に洗礼を授けたとする記録があることです。
 問題はこのいとことはだれかということです。
 素直に考えれば将軍の秀忠の娘をめとった加賀藩主、前田利常の息子光高かと推測できます。しかし厳密にいうと光高は将軍秀忠にとっては孫であり、次の家光にとっては甥ということになります。
 この近くで将軍のいとこといえば、忠直しかいない。そして洗礼を受けたというとしから忠直は参勤交代を怠るようになり、病と称するようになる。だから忠直はキリシタンだったというものです。
 キリシタンの研究者によると、福井での切支丹信仰は柴田勝家が切支丹大名だった高山右近の父、高山飛騨守を北庄に招いた時から始まります。
 徳川時代になってもかなりの信者がいたとみられ、切支丹灯籠も残っています。
 九州諸藩や、尾張、加賀などと比べると取り締まりは緩やかで、処罰も閉門止まりで刑死の記録は見あたりません。
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