忠直乱行伝説はいつ成立?
    50年後に記録現れる
 福井に明確な記録が残っているのは実は忠直の死後半世紀も経った後からです。
  まず1701(元禄14)年に「藩翰譜」という書物に現れます。
  ここでは乱行といってもまだささいなものですが、その後「越藩史略」(一七八一年 )「国事叢書」(一八四七年)「続片聾記」(一八四八年)と時代が進むにつれ話にどんどん話におひれが付いていきます。
 天守閣に美しい女の絵が舞い込んできて、その女を城下に捜すという話が登場するのはは死後二百年近く、幕末に書かれた「続片聾記」になってからようやく出てきます。
まな板石
 なぜ忠直の死後、乱行説が強まる?
 ここで考えなければいけないのが、忠直後の福井藩を継いだのは忠直の子孫ではないということです。高田藩主だった弟の忠昌で、忠直の息子は代わりに高田へ行きます。
 このとき忠直の家臣の多くは高田について行き、福井には高田の家臣団がやってきます。つまり福井と高田が藩ごと入れ替わったということです。
 福井藩と高田藩は親戚同士ではありましたがライバル関係でもあります。
 特に高田藩は後にお家騒動が持ち上がり、石高も減らされて岡山県の津山に移ります。 江戸時代中期には江戸城への登城順番などをめぐり福井藩と津山藩の本家争いまで起こります。一時期の福井藩にとっては忠直が悪者であるほど都合がよいという構造もあったことが想像できます。

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