大野藩、西谷に放火
【12月2日】美濃国で大垣と彦根藩によって行く手を阻まれた天狗党の一行は現在の岐阜県の根尾村から県境の蠅帽子峠を越えて越前に入る道を選んだ。現在でも大野から根尾村への道は冬季は積雪のため通行止めとなる。機械力のないこの時代、馬や大砲を曳いての峠越えはまさに至難の業だった。怪我人と別れ、不要な荷を捨て谷の細い道を上がった。
 【12月4日】天狗党は蠅帽子峠を越え、越前に入る
 越前側の峠のふもとは4万石の大野藩領。大野藩は福井藩からの急飛脚で天狗党が越前に向かうとの情報を得たが、にわかに信じられなかった。冬の峠越えができるとは思えなかった。しかし、斥候からの情報は、大軍が峠を下って来るというもの。浪士の一行の中には元大野藩士の松崎貞蔵もいた。土井利恒を藩主とする大野藩は譜代で、幕府の討伐令は絶対的な命令だった。しかし藩主は参勤交代で不在、動員力も200人程度で勝ち目は全くない。
 窮地に立った大野藩が選んだ作戦は住民を犠牲にした焦土作戦だった。
  浪士に先行して藩内に潜入していた松崎らをとらえた後、藩では、宿泊や食糧調達ができないよう、大野に下りてくる道筋に当たる集落を焼き払うことを決めた。上秋生や下秋生、中島、上笹又、下笹又と点在する旧西谷村の民家約200軒が藩士によって焼き払われた。真冬の強行に山の人たちは家を失ってしまった。中でも峠に近い上秋生、下秋生は浪士勢の通過後に放火され、村人の怒りをかき立てた。大野藩の役人の一人が村人によって殺され、自殺扱いにされたらしい。
 領民の怒り後生まで
 西谷の人々には藩からわずかな見舞金が出ただけで、まさに焼かれ損だった。西谷村は1965年の風水害で集中豪雨の大きな被害を受け、全体が水害対策のダムに水没することになり村そのものが大野市と合併することで消滅、村人は大野や福井市などへ離散したが、火事については「浪人(西谷)焼け」として、語り継がれ、今でも土井家を称える大野の祭りには参加しないという。


 町民が藩に代わって交渉

浪士たちは焼け残った土蔵や橋の下で風雪を避けるなど苦しい道行で大野への道を下った。
 【12月6日】大野藩ではいったん笹又峠で迎え撃とうとしたが、浪士の勢力を見て撤退。浪士は、大野の手前の木ノ本村に入った。木ノ本は鯖江藩の飛び地だった関係から、大野藩にも焼くことにためらいがあり、村人の抵抗もあって焼失を免れた。大野藩は大野の町に入れるわけにもいかず、戦いもできず、今度は町民を使者にたてての迂回工作を行った。町年寄の布川源兵衛を使者に立て町を通らないよう交渉した。結局大野藩が26000両という大金の軍資金を払うことで話がまとまった。
  幕末は大野丸という舟をつくり蝦夷地で交易を初め、大野屋という藩営商店を経営するなど進歩的な藩だったが、天狗党に対しては、領民に無用な迷惑をかけ、交渉は町民頼り、結局金で解決というなさけない顛末だった。領民の不信感だけが残った。
 天狗党の武田耕雲斎ら本隊が泊まった木ノ本の庄屋だった杉本家には、このときが浪士が残していったたたみ8枚分もの巨大な日本地図2枚が保存されている。宿泊の礼にと置いていったものだ。越前に入り、道行きの先が見えたことでもう地図は不要になったのだろうが、こんな大きなものを携えて水戸からここまで来たこと自体が驚きだ。
【12月7日】木本を出発した天狗勢は、道元が越前で最初に修行した場所としてしられる宝慶寺を経て、間道沿いに池田へと向かった。

 

道元が修行した宝慶寺
旧西谷村の中心だった中島
集落はダムに沈んだ

道元が修行した宝慶寺

宝慶寺から池田への間道