幕府苛烈 353人もを処刑
 加賀藩の嘆願実らず

墓前の武田耕雲斎の蔵

水戸浪士の遺品

松原にある水戸浪士の墓

【12月27日】慶喜は海津から京へ戻り、各藩の兵も引き揚げ敦賀には加賀藩と小浜藩の兵だけが残る。浪士ら八百二十三人は、敦賀市元町の本妙寺,本勝寺、長遠寺の3つの寺に収容される
 【1月1日】加賀藩から天狗勢に酒がふるまわれる
 【1月14日】加賀藩から天狗党の処分を寛大にとの要請が慶喜に出される
 【1月15日】幕府から田沼意尊が取り調べに来ることが決まる
 【1月19日】慶喜が天狗勢の処分を田沼に任せることが決まる
 【1月27日】天狗勢を加賀藩から福井、彦根、小浜藩に渡すことが決まり、耕雲斎らと永原ら加賀勢との別れ
 【1月29日】天狗勢を暗く狭い鰊倉に移して幽閉。16の倉に分散した。
 【2月1日】幕府追討総括の田沼意尊敦賀に入り永建寺を本陣に。耕雲斎らを初の吟味。
 【2月2日】加賀藩から助命を求める動きが出るが、田沼は浪士の処刑を決める。
  来迎寺を処刑地と決め、福井、彦根、小浜の3藩に首切りの太刀とりを命じるが福井藩は拒否。まず武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎ら幹部25人が斬首となった。
 【2月6日】残りの浪士の取り調べ開始
 【2月8日】通過地で合戦したものは斬首、残りは流罪と決まる
 【2月15日】135人処刑
 【2月16日】102人処刑
 【2月19日】75人処刑
 【2月23日】16人処刑。斬首者は353人となった。

処刑の様子を描いた看板

 遠島者らは敦賀を領地としていた小浜藩の監視下に置かれ、鰊倉に幽閉され続けた。翌1866(慶応2)年になると、世間の処分への批判も高まり、浪士への待遇も改善。5月26日には遠島から小浜藩預かりとなる。29日には藩士を倉から出し永厳寺に移す。1867年5月には敦賀から隣町の美浜に移され、翌1868年水戸に帰ることが許され、京から江戸を経て129人が水戸に戻った。

来迎寺内には墓も多い

浪士が閉じこめられた鰊倉
狭く、鰊のにおいも強く、体調を壊す浪士が
多かった

 寺内で町人同様に
 日本史上例のない大量の処刑が行われた敦賀市松島町二丁目の来迎寺は今でも大きな境内と墓所がある。もともとこの寺の端に町人の死刑場があり、武士が町人と同じ場所で処刑されるのは大きな侮辱だったと考えられる。
 処刑は大きな穴を5つ掘り、そこに死体を埋めた。大量の血が流れ、近くの川は死人(しびと)川とよばれたという
 来迎寺の西の松原公民館の裏手に、大きな塚があり上に耕雲斎らの墓碑15基が建つ。13基には処刑された352人、1基には討ち死にした21人、もう1基には病死の31人の名前が刻まれている。さらに道を隔てた西側には天狗党ら411人をまつった松原神社がある。神社の境内に移築された鰊倉一棟が立つ。中には天狗党にまつわる資料が展示されていた。毎年10月10日の例祭には毎年、浪士らの子孫が水戸から大勢訪れ、遺徳をしのんでいる。
 また福井藩士にも天狗党を悼んだものもいたとみられ、武田耕雲斎の「死塚」と書かれた石が、福井市大手一丁目の福井城跡から出土している。
 こぶし大の石に、墨で「武田耕雲斎之死塚」と記し、耕雲斎が藤田小四郎らの兵に合流し、京都へ向かう途中、越前に入り、(敦賀で)加賀藩に降伏し、殺されたこととなどが記述され。裏には、「明治十七(一八八四)年九月四日仕上ル 山口濱□(□は不明)」と書かれていた。