池田では村民に好印象
 【12月7日】宝慶寺の峠を越えると池田郡池田町となる。道は部子川という小さな川に沿って谷を下っていく。

 最初の大きな集落が、大本。。村では浪士が乱暴狼藉(ろうぜき)するといううわさで、婦女子を集落の外に逃がした。村の記録では大本に866人、馬200頭、人夫多数が宿泊した。大本に収容しきれず先の千代谷村に天勇隊など200人が分宿した。整然と規律正しく行動し、村人にも丁寧に接する浪士の姿に村人も恐怖心を解き心から歓待したという。宿泊先の家には兜(かぶと)などの記念品も残っている。

大本の集落 部子川沿いの谷を下りてき

善徳寺に建立された浪士の生き墓
 
 【12月8日】 千代谷から西へ進むと間部氏の鯖江藩の城下に近づくため、藩士が逆茂木などで阻止しようとた。天狗勢も交戦を嫌い、金見谷から杉峠と現在では、使われていない間道を通って上池田に向かった。
 既に浪士の大本での宿泊の様子は池田郷内に伝わり、村人たちは浪士を恐れなかった。婦女子も家に残り浪士をもてなした。先頭は次の町、今庄に近い東俣まで進み、最後尾は約8キロも手前の谷口に宿泊した。本陣となった東俣の飯田家は池田郷の大庄屋で、100人もが泊泊。かご3挺、鉄砲50、やり50本など細かな記録が飯田家の資料に残る。飯田家には馬1頭が残され、やりや立派な馬具が贈られた家もあった。
 浪士2人が生墓建立依頼
 最後尾が泊まった谷口の善徳寺には石上庄兵衛、篠田利助という名が刻まれた2人の浪士の生前墓がある。遺品としてもとどりを切り、墓を建立するよう住職に依頼したもので、浪士の多くは既に死を覚悟していたとがわかる。
 池田では一行は後々まで「浪士さん」「浪士さま」と呼ばれて親しまれた。敦賀で処刑されたとの知らせが村に伝わると宿泊先となった家々では読経してめい福を祈ったという。

 浪士が今庄に向かった杣木俣坂は今は道が途切れている。
 後々まで冥福祈る

本陣となった大庄屋の飯田家

今庄へ向かう山道
 浪士一行を越前の各藩は決して刺激しようとせず遠巻きに警戒した。福井藩から200人、鯖江藩から300人は板垣や市に、また福井藩の下でありながら半ば独立した形だった本多家の府中領からは400人はが周辺の集落に陣を構えた。さらに大野、勝山藩の800人は下池田から追ってきた。加賀藩も監視団に加わった。本来は主力となるべき福井藩は長州征伐に出兵中、出せる兵力も少なかった。
 東俣の飯田家の記録によると浪士が去った後、鯖江藩が本陣を置き加賀藩、大野藩も各村々の庄屋に泊まった。

今庄は無人の宿場
 【12月9日】天狗党の先発隊は、今庄の宿場に到着した。ところが、北国街道の宿場町として知られている今庄は全くの無人だった。戦闘を恐れ、人々はいち早く避難していた。浪士たちは残されていた食糧や酒を口にし、ひと息ついた。遅れた後続隊を待ち受け、十日まで滞在した。