越前・福井藩の栄光と衰退
 68万石から25万石への転落

68万石 秀康 越前藩主に
忠直の乱行 大分配流
50万石 忠昌 高田から転封 光長高田へ
52万石 忠昌 木本藩併合
45万石 嫡子光通 4代藩主に
光通後継問題 自殺?
47万石 弟昌親 吉江から5代藩主に
綱昌 6代藩主
越後騒動 高田藩取りつぶし 
綱昌 病気 乱行
25万石 昌親 7代に復帰 貞享の半知
新藩続々 越前は複雑

 68万石 秀康の時代
 越前、加賀 対照的な2つの大藩
 江戸時代はじめ加賀、薩摩に次ぐ大藩だった越前福井藩は、隣の加賀が幕末まで藩領を守りきったのとは対照的に、勢力を減らし続けた。関ヶ原合戦の翌1601年(慶長6年)2代将軍秀忠の兄、結城秀康が越前藩主となった時、68万石が与えられた。加賀前田家の119万石(後富山藩、大聖寺藩を分藩し102万石)、薩摩島津の75万石に続くだった。1607年2代松平忠直が継いだときも藩領はそのままだった。それが江戸300年のうち一時は25万石と3分の1近くまで減り、結局最後は32万石と盛時の半分以下のままで終わった。300諸侯中名門中の名門だった越前福井藩になにがあったのだろうか。同時代に起こった越後騒動など一門の動きも無縁ではなかったような気がする。
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福井城跡の堀と石垣 福井城の復元模型
天守台 天守台の上部  石垣

 忠直の「乱行」大分配流 68万石
 福井藩の最初の試練は2代藩主、忠直の時代にやってきた。まず1613(慶長18)年、重臣が真っ二つに分かれて争う越前騒動が起こる。若年の忠直には収める力はなく、結局幕府の裁定をあおぐことになり、家康、秀忠に近い本多富正に有利な裁定が下される。幕府から新たに家老として本多成重も送り込まれる。秀康の時代「制外の家」として別格扱いとなっていた越前家の権威は大きく失墜する。大阪夏の陣では一番の殊勲を挙げながら恩賞は茶入れだけで、忠直は不満を募らせる。幕府にとっては豊臣という最大の敵が消えた以上、親藩中の最も不安要因に加増することなど考えられないが、忠直側には理解できない。江戸への参勤を関ヶ原まで進んで引き返すなど問題行動を起こし、1623(元和9)年、豊後(大分県)に配流になってしまう。
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 高田から弟忠昌が転封 
 大野、勝山、木本を分知 50万石

 忠直の配流の後はいったん忠直と秀忠の娘の勝姫との間に生まれた光長が継いだと見られるが、すぐに国替えとなり光長は越後高田へ。代わりに1624(寛永元)年、高田から忠直の弟、松平忠昌が越前に入る。忠昌は北庄を福居(福井)に名前を変えた。忠直の家臣の多くは、光長に従い高田に向かうが、本多富正、成重の両本多は越前にとどまる。加賀前田家の押さえとしての越前の重要性を考えた幕府の意向があったのだろう。高田と越前の松平がちょうど加賀、越中の前田を挟み込む形になった。
 この時忠昌の弟の直政に大野5万石、直基に勝山3万石、直良に大野の近くの木本2万5千石の合わせて10万5千石が福井藩領から分け与えられる。さらに丸岡の本多成重は4万6300石の譜代大名として独立。また敦賀郡は一時幕府領(後に小浜藩領)となるなど、忠昌の福井藩は68万石から50万5280石に減らされる。50万石は当時としては大大名ではあるが、尾張、紀州の御三家よりは領地の面でもはっきりと格下となった。さらに25万石の高田藩の光長は中将だったのに忠昌は少将で秀康の正統は光長と見られていた。

 木本藩を加え52万石に
 その後大野藩主の直政は松本へ移り、直基が勝山から大野へ、直良が木本から勝山へ移り、1635(寛永12)年、木本藩は廃藩となり福井藩に加えられ52万石とやや増えた。1644年には大野藩主の直基が山形15万石に移り、勝山から直良が入る。勝山の2万5千石は福井藩預かりとなる。1645(正保2)年忠昌は49歳で亡くなる。忠昌の18年間は福井藩にとって最も平穏な時代だった。

 光通が4代藩主
 松岡 吉江を分知45万石 
 この年嫡子の光通が10歳で福井藩を継ぐ。わずか2ヶ月兄で妾腹の昌勝に5万石を分知され松岡藩を創設、弟の昌親に2万5000石が与えられ吉江藩(現在の鯖江市の一部)が立てられた。この吉江藩士の子息として後に近松門左衛門が誕生する。福井藩は実質45万280石となる。

 嫡子権蔵廃嫡 光通は自殺
 この4代藩主光通も福井城が完成するなど最初は順調だかったが、相続で問題を残した。権蔵という子がいたが、父子の仲が悪かった。権蔵を郊外の八幡村に置いていたところ1673(延宝元)年7月、16歳の時姿を消し福井からでようとする。堀十兵衛に探させ、今庄で見つけて帰るよう説得するが果たせず堀は自殺してしまう。権蔵は叔父の直良の江戸屋敷に入る。光通は幕府に対し公子ではないと届ける。権蔵は光通の死後、直良らの取りなしで一門と認められ、後に養子が糸魚川藩祖となり、最後の福井藩主茂昭が糸魚川から慶永の養子としてはいるという運命の皮肉を描く。
 光通はこの翌年福井で死ぬ。「越藩史略」は病とするが、「国事叢記」は「光通君御頓死。村正刀において御自害とも」と書く。病気がちだったのは確かだろうが、権蔵とのトラブルなど精神的にもろい面があったのだろうか。 
 弟 昌親が遺命で藩主に
 吉江を加え47万石
 光通の遺言で弟吉江藩主の昌親が藩主となり、さらに、光通の兄昌勝の子、綱昌を養子とし後継者に決められた。昌親の吉江領が加えられ47万5507石となる。

 甥の綱昌が藩主に
 忠直の子光長の高田藩に越後騒動
 昌親は2年で藩主を辞し1676年(延宝4)年、綱昌が家督を継ぐ。その直後藩外で注目すべき事件はまず高田藩の「越後騒動」だ。1674(延宝2)年藩主光長の嫡子綱賢が亡くなり、ほかに子がなかったことから後継者争いが起こる。藩の実権を握り、新田開発や直江津港の改修など大きな成果をあげていた家老の小栗美作と次席家老の荻田主馬、光長の弟で忠直の大分配流の時の子、永見大蔵らの争いとなり、幕府の大老酒井忠清の決済でいったん小栗方が正しいとされる。

 将軍決済高田藩とりつぶし
 しかし綱吉が将軍につくと審理がやり直しとなり1681(天和元)年の親裁で高田藩は取りつぶしとなり光長は松山藩預かりとなる。高田藩が御三家に次ぐ4家と呼ばれる格を誇っていたことに加え、光長が綱吉の将軍就任に反対したことなどが裁定の変更につながったとも見られる。小栗の父は忠直に従って大阪夏の陣の参加するなど越前とのゆかりも深く、福井藩でも固唾をのんで裁定を見守っていたと見られる。裁定後永見、荻田、さらに小栗美作も綱昌の預かりとなるなど、越前への余波は大きく、「国事叢記」にはこの間の記述が詳しい。これで忠直の正嫡は一時途絶え福井藩が秀康の系統の名実ともにトップとなる。

 綱昌病気?乱行?
 しかし福井藩も藩主綱昌は病気がちとなり、越後騒動の裁定の下る直前の1681年3月、江戸城から帰宅後、藩邸に引きこもりがちとなり、「乱心」という記述もでてくる。このため前藩主の昌親が江戸と往復するなど実質的に藩主のような役割を果たす。

 綱昌改易 昌親再び藩主に
  25万石  貞享の半知
 1686(貞享3)年3月、昌親と一門の大名が江戸城に呼ばれ、綱昌の改易が言い渡される。代わって昌親が新規に福井藩主となり25万石が与えられる。藩領はほぼ半減され「貞享の半知」「貞享の大法」という重大事件として後々まで記録される。隠居の身を嫌った昌親がもう一度福井藩主に就こうと不仲の綱昌の乱行を訴えたためともされる。
 この半知で福井藩の地位は一挙に低下する。領地宛行状が国名を表す「越前少将」から都市名の「福井侍従」となり大名行列に忠昌が大阪の陣で使った片鎌槍を使うこともできなくなり、藩邸の格式も下がる。江戸城の控えの間も大廊下からほかへ移らざるを得なくなった。家臣も510人を解雇し、残りも府中領主の本多家が2万石に半減するなど全体が減封された。
 この福井、高田両藩の転落は、江戸幕府の仮想敵国だった加賀前田家が婚姻政策などで幕府との結びつきを強めて、脅威でなくなってきた一方で、将軍家の跡目争いのもたつきの末に生まれた5代綱吉が家柄を誇る秀康系を嫌った結果かもしれない。
 新藩続々 複雑な越前
 福井藩領が半分になった残りの22万5千石の領地はいったん幕府領となり、その後雨後の竹の子のように新しい藩が次々と生まれた。勝山には美濃高須から小笠原貞信が入り2万2777石が与えられ、鯖江に間部詮言が5万石で入り鯖江藩が誕生する。紀州の徳川光貞の3男頼職に与えられた高森藩、4男頼方(後の将軍吉宗)の葛野藩のそれぞれ3万石も一時的に存在した。小藩の乱立と、幕府領との複雑な入り組みが後の「越前詐欺」と呼ばれ、現在でも社長の割合が日本1という、小才が利き、独立心は強いが、まとまりがなりという福井人の気質を生み出すいったんともなったのではないだろうか。

(参考文献 国事叢記、越藩史略、福井県史通史編3・4、藩史大事典、福井県の歴史、御家騒動読本ほか)

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