場合によっては白山や勝山市との県境の白峰村は福井県だったかもしれないのです
 
天保時代の地図。白山と18か村 慶応時代の福井藩の地図
  江戸時代初期の現在の白峰村の牛首や桑島といった村々福井藩の土地でした。この地域は支配が何度も代わり、室町・戦国時代は加賀の守護の富樫氏から一向一揆の支配に変わりました。
 江戸時代最初は、白山麓の十六か村が福井藩の預かり地となり、越前国として位置付けられていました。福井藩が幕府の命でつくった「越前国図」にもはっきりと白山が描かれています。

 明暦(1655―1658)年間に福井藩と加賀藩の支配権争いが起こります。争いは長引いたのですが、寛文8(1668)年に幕府の裁定が出され白山麓の村々は幕府直轄領とされます。
 しかし一方で御前峰など白山山頂一帯は勝山の平泉寺の管理権が認めらます。江戸期の白山は越前側が事実上、支配権を握ったままでした。

 
 明治期に入ってまもなくも白山は福井でした。
 このとき福井県は福井、丸岡、大野など江戸時代の藩ごとに10県に分かれます。
 明治4年(1871)年の廃藩置県で越前の旧幕府直轄領をまとめて本保県という名の県も誕生し、白峰など白山麓の18ヶ村もここに含まれました。もちろん白山もです・
 さらに維新政府は全国の3府302県を3府72県に減らす改革を行い「福井県」が誕生します。ここにもまだ白山麓の村と白山も含まれていました。
 
 福井県はいったん足羽県という名に変わるのですが、ここで18か村のうち尾添と荒谷村から石川県に属したいという嘆願書がでます。
 ここで注意すべきなのは嘆願書がでたのは現在の尾口村に所属する場所で、白峰村の地域から嘆願書がでたわけではないのです。手取川の最上流にある当時の白峰は、勝山との結びつきも強く、川を下って金沢に行くよりも、勝山から福井にでた方がずっと便利だと考えていたようです。
 
 明治政府は、十八カ村の帰属をめぐり、当時の足羽県と石川県に実地調査を命じます。
 ここで石川県と足羽県の熱心さの差が白山の帰属を分けました。

 足羽県から調査に赴いた四人は、尾添と荒谷の二村しか調査しませんでした。
 これに対して石川県の担当者は、各村を回って住民の意向を探ったり、白山に関係した神社や18カ村の沿革を調査したりするなど詳細な報告書を作成しました。ふたつの報告書の厚さが熱意の差と受け止められてしまったのは間違いありません。
この2つの報告書に基づき、政府は明治5年11月、白山麓18カ村と平泉寺領を石川県の管轄としました。さらに同7年、政府の教部省は、平泉寺領を白山比め神社「相付すべき筋」と決定。古くから白山に奉仕してきた平泉寺は、その管理権をすべて失うことになってしまいました。

 加賀100万石を受け継ぎ、大きな組織が残されていた石川県と、旧地域が細分化して、組織のまとまりのなかった福井県の差が事務能力の差となってしまったのでしょう。

  明治初めの大逆転
   泰澄と三馬場 

   平泉寺の栄華
   白山神社

   白山の麓 白峰村
   美濃馬場 白鳥の長滝寺
   信仰の村 石徹白と中宮神社