継体の墓は今城塚古墳
          宮内庁は茶臼山
 継体天皇の墓は古事記などに「三嶋藍野陵」と書かれています。
 これまでは大阪府茨木市内の「太田茶臼山古墳」が継体陵とされ、宮内庁が陵墓に指定しています。しかし最新の研究で隣の高槻市にある「今城塚古墳」が本物の継体陵とほぼ断定され、市教委による発掘調査も行われています。出土する埴輪(はにわ)や石棺の破片が淀川を使った水上交通との深い関係や九州との交流が浮かび上がってきています。
 

  信長が一部破壊か
 今城塚古墳は全長190メートル、前方部が大きく開いた形の古墳時 代後期の前方後円墳です。周囲の堀の部分を含めると350メートルにもなります。戦国時代に山城に改造されて上部が大きく荒らされています。
  この山城に改築した主がだれか。織田信長によるものではないかという推測が出ています。ここは摂津城主だった荒木村重の城に近く、村重が反乱を起こしたときに築いたのではないかというものです。
 1997年から市教委の確認調査が行われています。後円部や内堀から石棺の破片が見つかっています。山城に改築したときに壊された一部ではないかとみられます。


    阿蘇産の石棺も出土
 石は3種類ありました。熊本県、大阪府の二上山、兵庫県播磨地方の三地方で算出されたもので三つの石棺があったと考えられる。その一つは継体としてあと二つはだれのものか現時点では不明です。3つの石の中では熊本の阿蘇山の噴火によって作られたピンク色の石が最も古く、これが継体の石棺と見られています。
 磐井の乱を収めた後、九州とかかわりを強めていったという推測も成り立ちます。
 この九州の石が使われていることが「継体は越前との関わりは薄く、もともと畿内にいた」という主張の根拠にもなっています。「越前の笏谷石の方が阿蘇の石より良質。それなのに関西に笏谷石が見られないのは、実際は継体は越前にいなかったことを示すのでは。越前にいたのなら当然笏谷石は見ているはず。ところが近畿地方には笏谷石はまったくない」というものです。
 墳丘や堤から大量の埴輪が見つかっている。円筒、家形、武人、馬形など多彩で約一万二千個並べられていたと推測されています。この埴輪はすべて近くの「新池埴輪製作遺跡」で作られています。
 円筒埴輪から船の記号が書かれたものが多量に出ています。このころ準構造船から帆船への航海術の発展があり、それが磐井の乱への大量動員を可能にさせたのではないかと考えらています。
 これまで継体陵とされてきた「太田茶臼山古墳」は墳長226メートルと巨大なものです。時代的には継体より早い五世紀中ごろから後半に築かれたとみられています。
 継体が摂津育ちと考える人たちは、この墓は祖父のオホホド王の墓ではないかとみます。この地は継体の父系の息長氏の勢力圏で、継体は、祖父の墓の近くに自ら今城塚古墳の場所を選んだのではないか見ます。
 茶臼山古墳をオホホド王とすることに否定的な学者も多くいます。しかしこの古墳が宮内庁から陵墓に指定されて調査できないため早急に結論は出そうにありません。
   母振姫の里に巨大古墳群
   越前の鉄と若狭の塩
   先祖は?、新王朝か
   今城塚には笏谷石はなかった
   妻は11人うち越前出身は?
   大和より淀川を好んだ?
   没年に3つの説