美人だった母振媛

振媛や応神天皇をまつっている
丸岡町の高向(たかむく)神社

 日本書紀や「上宮記」によると継体天皇の父は近江の高嶋郡三尾(滋賀県高島郡)の別業という場所にいた息長(おきなが)氏系の彦主人(ひこうし)王です。越国三国の坂中井の高向(たかむく)にいた振媛(ふりひめ)を迎えます。三国といっても今の三国町でなく、丸岡町を中心にした越前平野の北半分と考えられています。しかし、継体が幼少のとき、彦主人が亡くなり、振媛は継体を連れて故郷に戻って養育します。
 振姫という女性は、日本書記に「顔容珠妙、甚だうるわしき色ある」と書かれています。絶世の美女だったらしい。この噂を聞いて彦主人が近江から越前まで迎えに行ったという。伝説と現実が入り交じったような話です。
 古事記にはこんなくだりはありません。「オホドの命」が近淡国から上り、皇族の手白髪命と結婚して天下を授けたとしか書かれていません。妻のうち三尾氏の出身という二人が関係ある可能性はあるものの、明確に越前にいたことを書いた表現は出てきません。
 以前は古事記の表現を信頼し、日本書紀の表現は伝説として継体は越前にいたことはなく、畿内の出身とする見方もありました。その方が皇族にふさわしいからでしょう。 しかし戦後の考古学と文献史学の研究成果から継体が越前と密接な関係があったということは、ほぼ定説化しました。古代史学の門脇禎二氏や山尾幸久氏、考古学者の森浩一氏らが積極的に越前根拠説を唱えています。
 継体の育った高向は現在の丸岡町の一部で同町内には振媛と継体の父方の祖先とされている応神天皇をまつった高向神社があります。
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 越前平野に大きな古墳
 

松岡町の手繰ケ城古墳。山頂まで葺き石を手渡しで運んだという 北陸最大の丸岡町の六呂瀬山古墳。トンネルの上にある

 山頂に大きな力の跡
 以前は、5,6世紀の越前は、日本の辺境の遅れた地と考えられていました。しかし福井平野で古墳の調査が進むにつれ、その先進性と強大な勢力が明らかになってきました。
 九頭竜川が福井平野に広がろうとする松岡町と丸岡町の山に大きな古墳群があります。松岡町の手繰ケ城古墳、二本松山古墳、春日山古墳、丸岡町の六呂瀬山古墳など百メートルを越す前方後円墳が続いています。古墳には九頭竜川から運んだ葺き石があり、埴輪が並んでいます。福井市の足羽山の笏谷石でつくられた巨大な石棺も古代人によって山頂に運ばれました。
 振媛の実家はこんな巨大な古墳をつくる強い力を持った豪族だったのです。近江から母に連れられてやってきた継体を守り育て力を付けさせる強力な勢力がありました。
 そして越前の勢力は、当時の最新の文化圏だった朝鮮半島と密接な関係がありました。  継体が生まれる直前の五世紀末築かれた標高273メートルの山頂にあった二本松山古墳の石棺内からは金と銀がぬられた冠、甲冑や鏡など豪華な副葬品が出土しています。
以前話題になった奈良県の藤ノ木古墳で出土した有名な冠よりも一世紀も早い時代のもので、畿内よりも越前の方がずっと文化の先進地であったことを示すものです。


   母振姫の里に巨大古墳群
   越前の鉄と若狭の塩
   先祖は?、新王朝か
   今城塚には笏谷石はなかった
   妻は11人うち越前出身は?
   大和より淀川を好んだ?
   没年に3つの説