書紀に9人、古事記に7人の后
   政略結婚で勢力拡大
 継体は日本書紀では9人、古事記では7人の后(きさき)を迎えたと記されています。門脇禎二氏が「とりも直さず地域勢力との政略結婚を物語っている」というように、姻族関係を結ぶことでその背後にある勢力を利用したと考えられます。
 日本書紀と古事記で后の記載の順番が違います。書紀は妻の格付けの順、古事記は結婚順という見方があります。その出身地については越前から近江、美濃、尾張と水陸交通の要衝の地域が多いのが特徴です。

 中でも安閑、宣化の両天皇の母となる尾張氏の目子媛(めのこひめ)が重要視されています。名古屋市に六世紀初頭に東日本最大の前方後円墳といわれる断夫山古墳があります。これを築いたのが尾張氏で、越前を出た後、尾張を東国経営の拠点にしたと考えられれます。ここをヤマトと東国を結ぶ交通の拠点としたはずです。
 また、日本書紀の三番目と七番目に出てくる三尾角折(みおのつのおり)君と三尾君については本拠が福井、滋賀両説があります。滋賀県には三尾君の始祖をまつった水尾(みお)神社や三尾里などミオと発音する地域があります。安曇川町から高島町にかけての地域が出身地で、金銅製の冠や装身具などの副葬品が出土した鴨稲荷山古墳に深く関連していると滋賀説は主張します。
  一方、福井説は金津町に御簾尾(みすのお)のという地がありここはもとは三尾と呼ばれていたものが変化したもの。『延喜式』に出てくる三尾駅があったところだと主張します。ここに越前の前方後円墳の約四分の一が集中している横山古墳群があり、これは三尾氏の墳墓だとします、
 さらに福井市の京福電鉄中角駅に近い福井市角折町や三尾野町と結びつける研究者もいます。
 最終的に継体を継ぐ欽明天皇を産む手白髪命については「ヤマトの天皇の娘、ヤマトに入るときの最終的な姻族関係」と考えられています。

   母振姫の里に巨大古墳群
   越前の鉄と若狭の塩
   先祖は?、新王朝か
   今城塚には笏谷石はなかった
   妻は11人うち越前出身は?
   大和より淀川を好んだ?
   没年に3つの説