淀川水系で都点々
    大和入りあえて遅らす?
 越前をたった継体は、「日本書紀」によると、五〇七年に河内の樟葉(くずは=大阪府枚方市)で即位しました。山背の筒城(つづき=京都府綴喜郡)、弟国(おとくに=京都府長岡京市)と3カ所に都を移します。最終的に大和の磐余(いわれ)入りするまで二十年間かています。この長さが何を物語るのかが、大きな謎(なぞ)の一つとなっている。
 これには、「大和に反対する旧勢力があって、なかなか入れなかった」という見方と、「入れなかったんじゃなくて、あえて入らなかった」とする二つの説があります。後者の中には継体の最後の宮とされている大和の磐余玉穂宮は実在しなかったのではとの声まであります。
 反大和派は淀川水系にあった三つの都(宮)の位置に注目します。樟葉は淀川、筒城は木津川、弟国は桂川を押さえる位置にあり、いずれも水上交通の要衝でした。
 考古学者の各地のシンポジウムなどで、当時の東アジアでは大河のほとりに都を置くのが一般的だったとし「アジア諸国の都の位置として恥ずかしくなく、瀬戸内海や朝鮮半島に行くのに便利な場所に都を置いた」と指摘しています。
 そしてこうした継体の河川交通の重視は、越前での九頭竜川の水運利用が原点にあったのかもしれません。

   母振姫の里に巨大古墳群
   越前の鉄と若狭の塩
   先祖は?、新王朝か
   今城塚には笏谷石はなかった
   妻は11人うち越前出身は?
   大和より淀川を好んだ?
   没年に3つの説